しかし彼らは同じ顔をしている

ということで某斑目さんの叩かれまくってる「(実質的にゼロではあるが)ゼロではない」発言*1から適当に考えたお話。


まぁこの人もなんというか誠実な人なんだなぁと思うんですよね。だって科学的に誠実であればあるほど「正確にゼロである」なんてことは絶対に言えるわけがないんだから。むしろそんな事を言い出すのは不誠実さの証明でもある。
そうして過去の原発推進者たちが謳っていた「原発は絶対に安全である」という発言は、3.11以来それはもう批判されまくっているわけで。だから、彼らは実際にはゼロではないものをまるでゼロかのように騙していたのだ、と気勢をあげまくってる現在の原発反対派の人びとの訴えはまさに正しい。
彼らはあの時ウソをついていたのだ、と。確かにその通りです。


ここで重要なのはそうした原発を巡る科学議論において「誰にもそのリスクがゼロであると断言することはできない」ということなんです。
当たり前の話ではありますよね。


そして現在、原理的な反対派の人びとは「原発を進めるなど最早考慮にも値しない」と訴えている。
誰にも「原発のリスクがゼロである」と言えないのと同じ位に、「原発を廃止することのリスクがゼロである」なんてことは言えないはずなのに。もしかしたら将来原発に頼らざるを得ない時が来るかもしれない*2。ゼロでは決してないはずのものを、まるでゼロであるかのように誇大して主張している。
その姿はかつて「原発は絶対に安全である」と言っていた人びとと、まったく同じ不誠実な発言をしているんですよね。
かつて様々な事情から『原発安全神話』を唱えた人びとが今こうして批判されているのは、それはまぁ確かに自業自得ではあります。しかし現在その批判している人たちもまた『反原発安全神話』をまったく同じ様に唱えている構図。
なんかもうすごく気の抜けるお話ではありますよね。


こうした事例からもっと適切な教訓を引き出すとするならば、どちらにしても「リスクがゼロであるなんてことは幻想である」ことを理解した上で、その危険を冒すかどうかのコンセンサスを得ることなんじゃないかと思うわけです。
私たちは進むにしても戻るにしても、結局の所、どちらにしてもリスクを犯さなくてはならないのだから。



以下、身も蓋もないお話。

*1:「ゼロではない」は「事実上ゼロ」班目氏が釈明 : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

*2:現に私たちは過去の石油危機などを通じて、原子力発電などを使っての一極集中でない多様な発電に価値を見出したわけで