原発議論は科学議論でさえない

とまぁ理想論100%で書いてみましたけれど、書いている私本人も「奇麗事だなぁ」と思いながら書いているわけであります。幾ら正論として「どちらもリスクはゼロではない」と訴えたところで、「リスクはゼロである」なんて甘い言葉を言われてしまえばやっぱりそちらを信じたくなってしまうのが人情なんだから。
http://wiredvision.jp/news/201105/2011051821.html
やっぱり私たちは集団になればなるほどバカになっていくんですよね。悲しいお話です。

Surowiecki氏が述べているように、集合知が発揮されるためには、一定の条件がそろわなければならない。つまり、集団の各構成員は多様な意見をもち、また、それらの意見にはめいめい自力で到達する必要があるという。
この条件が欠けると、集団の知性が損なわれることは、幾度かの金融バブルが証明している(日本語版記事)。群衆行動のコンピューター・モデリングでも、情報の流れと多様な意見とのバランスが崩れることで、集団の知性が低下する可能性が示唆されている。

http://wiredvision.jp/news/201105/2011051821.html

そもそも原発議論を科学議論として扱うこと自体に無理があるんですよね。それがあまりにも重要であるが故に、マスコミや賛成派や反対派から受ける自らの判断への影響を避けられない。それが中立的な議論になることなんて絶対にありえない。それは皮肉にも、私たちが強く感心を持つからこそ失敗してしまう。


つまるところ、「科学的に原発は安全ではない」も「科学的に原発は安全である」も、実の所どちらも同じ位意味がなかった、というオチ。
それでも前半のような奇麗事を言うことも無駄ではないと信じてます。
みんながんばれー。