多文化主義の先にあるもの

分離もせずしかし均一化もしない、そんな綱渡りのようなバランスを一体どうやって実現させるのか、なお話。


http://geopoli.exblog.jp/15948510/

●この問題の難しさは、あまり公共の場で議論されない二つの点にある。

●一つは、「多文化主義」というのが大量の移民によって構成された「社会」のことを示していることであり、もう一つがこのような多様性を管理する政府の「政策」のことを示しているからだ。

●この二つの意味を区別できないと、政府の政策の失敗そのものを、マイノリティーたちの責任に押し付けてしまうことになってしまう。

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なるほどなぁ、と。『多文化主義』そのものの失敗というよりも、むしろ(多文化主義を維持していく為の)『政策』の問題であると。


以前にもイギリスやドイツでの「多文化主義の失敗」のお話を書いた時にも思ったんですが、この「政策の失敗」という手続き論的な失敗って、かつてカントさんが危惧していた『諸民族からなる一つの世界国家』の抱える自己矛盾と似たようなところがあると思うんですよね。
つまり、多くの民族が一つの集団に融合されることは、結果的にただ一つの民族として生まれ変わることになり、それはその前提である『諸民族からなる一つの世界国家』と矛盾するのではないか? というお話。
カントさんはそうした「諸民族からなる」を目指した所で、結果として、文化的・社会的差異の均一化することにしかならないのではないかと危惧したわけです。だからこそ、彼は世界国家ではなく『国際連盟』という壮大な理想を掲げた。


それと同様に『多文化主義』を維持管理する為の政策もまた、結果的にそれは融合した形での別の一つの『文化』生み出すことに過ぎないのではないか? とも思うんです。
まぁ確かにそれを「多文化である」と主張する事も当然出来るんだろうけど、あまり筋はよろしくないですよね。ある意味でそんな人工的な融合文化の典型例がアメリカ合衆国だと個人的には思いますけど、しかしそんな強力に「アメリカ人である」ことを押し出す現代アメリカのことをそうした多文化社会と見なすことに否定的な人もかなり居るように。


その意味で、上記引用先では「政府の政策の失敗」なんて言葉で仰っていますが、やっぱり上記カントさんの例のように、文化的・社会的差異の均一化、以外に私たちが現実的な解決法を未だ見出せないことにあるんじゃないかと。それは緩過ぎればバラバラになってしまうし、しかし締め過ぎれば融合してしまう。一体誰がそんな丁度良い塩梅を設定すればいいのだろうか? 少なくとも民主主義がその微妙で繊細な調整に向いていない事はほぼ確実であります。
それが未だ見つけだせていないだけなのか、あるいはそもそもそんなもの存在しないのか、まぁその辺は議論の分かれる所ではありますけど。