とある熱心な運動家の悲喜劇

あるいは現代民主政治で繰り返される愚行について。


「彼が犯した勘違いの中で、こうした結末に至る原因となった、最も致命的だったのは何だっただろうか?」
と、考えた場合に導かれる最大の理由は『失った信頼を取り戻せる』と考えた点にあるのではないでしょうか。
もちろんそのこと自体は、ほとんどの場合において、決して否定されるべきものではないし、むしろそうやって努力することは美しいことでさえあるとされています。しかし残念なことに彼はその数少ない例外に立っていた。そして彼は最後までそのことに気付かなかった。それまで何十年も今回と同様に排斥された人びとを見てきていたはずなのに。
結局最後まで彼はその事に気付かず、歴史からも経験からも学ぶことができなかった。
彼がこれまでその場所に立った相手を見てきたように、彼も同じ場所にこうして立った時、相手から同様の視線で見られていることについに気付かなかった。


これは日本だけが特別なのではなく、今のアメリカをはじめ、多くの民主国家の政治状況が証明していることでもあります。
つまり、一度激しい怒りを招いてしまった政権では、その次からどんなに「正しい」ことや、いくら「必要」なことをやろうとしても、まったく信用を得られなくなってしまう。それがどんなに真っ当なことであったとしても誰も賛成をしてくれなくなってしまう。「やりたいこと」だけでなく「やらなければいけないこと」さえもできなくなってしまう。批判する側はほとんど場合で、ひたすら相手の反対を目指すだけという不毛な膠着状態に陥いることになる。
政権末期に至ってもいないのに、政権に対して妥協をしようというインセンティブが失われてしまう。


現代政治におけるレームダックの真の恐怖はここにあるのです。政治が停滞するだけではなくて、それだけならまだマシな方で、むしろ後退する。確かにそれは現代政党政治における致命的な欠陥であり愚行の一つです。しかし幾ら悪いことについて「良くない」といった所で、その存在が無くなるわけでは勿論ない。
その意味で彼は『レームダック』ということの真の意味を理解していなかった。
あるいは解っていたとしても、そんなものは個人の努力で幾らでも挽回できると無邪気に信じていた。


かつての政権与党だった自民党は、この問題の解決の為に、次々と首相の顔を入れ替えそのインセンティブを確保するという手法に辿り着いていたわけです。個人の努力など全く無駄であると完全に割り切っていた。そして今回再び民主党もまた、同じ結論に辿り着くことになった。


この話において真に皮肉なことは、こうした彼の個人的な努力こそが、初めからそんなものやらない方がマシだったということを再証明してしまった点にあるのです。
私たちはこうした結末を喜ぶべきなのでしょうか? あるいは悲しむべきなのでしょうか?