別に三人寄っても文殊の知恵は出てこない

福島第一原発の一件があっても原発議論のS/N比は向上していないですよね、というお話。


ということで、あの「3・11」な大震災からもう5ヶ月だそうです。けど別に原発の是非に関する議論が進んだとはとても言えませんよね。何かもう延々と同じことをぐるぐるとやっている気がします。そのうちバターにでもなっちゃうんじゃないでしょうか。


さて置き、実際あの大震災とそれに伴う原発事故の一件以来、それはもう様々なデータやこれまで注目されていなかった議論が世に出てくるようになったわけです。勿論それはこれまでもあったもので、それがより表に出てくるようになった、という意味の方がずっと強いんですけど。
しかし、そうした様々なデータや広範な議論がこれまで「原発議論」にどれだけ寄与したのか、というと実際怪しい物だと思うんですよね。(勿論僕自身も含めて)ほとんどの人が時流に乗って騒ぎたいから騒いでただけ。それだけならまだマシで、むしろ怪しい情報や議論に踊らされてしまう人がほとんどだったわけで。


つまるところ、今回の一件って確かにその「原子力発電所の是非を改めて広範に問い直すこと」を導いたんだけれども、しかしその議論の中身が進歩したのかというとそういうわけでは決してない。
なぜかって、そりゃ別に規模が大きくなったところで、原発議論におけるS/N比が向上したわけでは決してないから。
今回の原発議論の盛り上がりが説明しているように、しばしば、というむしろ殆どの場合においてこうした「情報量の増大」は必ずしも「正確な情報」がその分増えたことを意味しない。情報量が総体として増えたということは、その中でも「謝った情報」というのも同じくらい増大しているわけです。
そのシグナルとノイズの割合が変化したわけではないし、むしろのS/N比、正しい情報と誤った情報の割合は双方のイデオロギー的な争点となってしまった故に悪化している、とさえ言えてしまう。


昔某2chについて「嘘を嘘と見抜けないと(掲示板を使うのは)難しい」なんて語られてたりしていましたけど、そんなの別に2chに限った話じゃないんですよね。
私たちはネット上の情報に限らず、常に参照する情報の取拾選択を迫られているわけです。そこで自分の意見に沿った「見たいものだけ」を見ようとすることも幾らでも出来るんだけど、しかしより「誠実」であればあろうとするほど、より高度な判断能力を要求される。
幾ら議論に参加しようとしても、前提となる知識量・動機付け・判断力などなど、その個人的な是非以前の問題としてかなりの部分まで私たちの認識力によってそもそも左右されている。


こうした事実を無視した上で「広範な議論」が円滑に進むなんてとても考えられませんよね。
むしろ広範な議論になってしまったからこそそのS/N比は悪化し、「正しく議論する為に」より高度な能力を要求され、そしてまたS/N比は悪化していくと。なんという負の連鎖でしょう。多数派な民意こそが重要であればいいのだ、なんて言ってしまえば楽なんですけどね。
偶に素でそうしている方もいらっしゃいますけど、解って言っているなら潔いなぁと少し思ってしまいます。