それはイスラム教差別ですらない

差別の域に達していない、お話。


モスク建設計画難航…地元町会「引き下がって」 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
というわけですごい盛り上がってたモスクのお話。へーという感じですよね。へー。

石川県内在住のイスラム教徒らでつくる「石川ムスリム協会」が中心となり、金沢市内で進めている県内初のモスク建設計画が、地元町会の反発で難航している。

既に土地を取得し、着工段階を迎えた協会側は、9月下旬に地元説明会を開いて理解を求めたが、町会側は「イスラム教になじみがない」などと、計画反対を訴える声が多いといい、異文化理解の難しさをうかがわせている。

モスク建設計画難航…地元町会「引き下がって」 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

「なじみがない」ですって。まぁそれをいっちゃおしまいなわけですよね。
ここで驚くべきなのは彼らの非寛容的な立場などではなくて、むしろその論理が通ると彼らが思っている点にあると思うんです。「なじみがない」とか「引き下がって」とか。正直な感情を表に出しただけなんだろうけども、しかしもうちょっと他に言い方はなかったのかと。


こうした構図から読み取れるのは、結局のところ彼らが本質的に馴染みがないのは『イスラム教』そのものではなくて、つまり『異文化を理解する機会』そのものなんですよね。
故に彼らはその経験不足という点から、こうしたバカみたいな論理に至り、そしてそれを何の疑問もなく口に出してしまっている。別に根本的にイスラム教の偏見がどうとかそういう問題じゃないんです。


一般にこうしたことの進歩性が喧伝されるヨーロッパだって一朝一夕にその『寛容』という概念を獲得したわけじゃない。彼らはその数百年に渡る不毛で悲惨な歴史と経験の末にようやくその結論に至った。幾ら前例として見習うべき社会が既にあるからといって、それを簡単に真似ができるかというと勿論そんなことないわけで。
「正しいモデルが存在する」ことと、それが「簡単に実現できる」かどうかは全くの別問題なんです。だからといってその努力を怠っていいという理由には当然なりませんけど。偶に両者を同一視してしまう愉快な人がいらっしゃるのが疲れる話ではあります。


まぁ実際江戸幕府鎖国が終わってからの今から100年位前にキリスト教が一般に流入しはじめた時だって同じような騒動があったわけです。「教会を建てるなんてなじみがない」と。その後は大戦の影響からそれこそ不当に「キリスト教はスパイだ」なんて今以上に差別されていた時代もあった。現在のイスラム教が特別にアレなのではなくて、基本的にいつだってひどかったんです。あの時代もそして現在も同じ問題を抱えている。
私たち日本人が不運(あるいは幸運)だったのは、ほとんどの歴史を通じてそうした宗教的な『異文化理解』する機会さえなかった点にあるんですよね。故にそれは差別ですらない。だって悪い経験も良い経験もそもそもしたことがないんだから。無知の罪ですらない。だって「知らないことさえ知らない」のだから。一体誰が悪かったのかといえば、1500年位前に仏教を取り入れた後余りにも華麗に仏教ageをし過ぎた聖徳太子辺りにその要因が求められるんじゃないでしょうか。あと日本海。結局仏教以後ほぼ完全に宗教の伝播から断絶されていたわけだから。未だに仏教大好き聖徳太子先生の伝統に支配される私たち。


もちろん概念としては理解していても、しかし実際的な経験として「知らないことさえ知らない」無知の無知にある私たち。上記モスク建設反対の町会の皆様が特別に馬鹿でも非寛容というわけでもなくて、単にそんな私たち日本人の馬脚を露わしてしまっただけ、というお話だと僕は思うんです。それはイスラムへの差別の罪でも、そしてイスラムを知ろうとしない無知の罪ですらない。
日本人の多くはそもそも、そんな宗教的な異文化理解の機会が自分たちにまで及ぶことすら、想定してこなかったのだから。


みなさんはいかがお考えでしょうか?