管制高地はどこへ消えた?

  • 管制高地
    • 『市場対国家』(ダニエル・A・ヤーギン、ジョゼフ・スタニスロー共著)より。
    • 軍事的要衝たる、その戦場を支配できるような高地。
    • 転じて、経済における市場の役割と政府の役割のバランスをどう規定するか? その最も重要な部分=管制高地は誰が握るのか? なお話。


すくいぬ 資本主義は確実に崩壊することが判明
いつもの2chまとめサイトかと思ったら、ずっと為になるというか考えるヒントになるお話でした。なるほどー資本主義は崩壊するのかー。


http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/30988
ともあれ、上記フィナンシャルタイムズさんの記事でも仰っているように、大恐慌後の1930年代と同様に、何らかの世界的規模での『痛み』が今後もしあるとするならば、その次にやってくるのはやっぱり「市場の役割の後退」ということなのかなぁと個人的には思っています。まぁそれってほとんどイコールでアメリカの影響力の後退ということでもあるんですけど。アメリカのパワーとそのイデオロギーの持つ影響力とは、やっぱり無関係ではないんだから。
以下その辺について考えた適当なお話。


かつての19世紀の終わりまでにあった新発明たる資本主義や「市場への信仰」とは反対に、その後の20世紀前半からの混乱の時代の後に特にあったのは、市場は失敗する、という共通の認識でした。
まぁそれも解らない話ではないんですよね。大恐慌や世界大戦そして資本主義がもたらした「凄惨な」労働者環境など、未曾有の大混乱の中で国家の果たすべき役割は、半ば必然的に増大していった。それをより極端にしていったのは東側の共産主義であったし、また多くの西側諸国にしてもその多くが『大きな政府』の下にありました。
市場とは暴走しがちであり、失敗することが多く、カバーしきれない分野が多く、そのリスクも大きく、市場が悪用される可能性も大きい、つまり――市場に任せるくらいなら他のものに任せた方がマシだ、と。故に20世紀の終わりごろまで、そうやって市場よりもずっと大きな役割を政府の知恵に担わせていました。市場の失敗と政府の失敗を較べたとき、後者の方がまだマシだろうと。
そんな潮流は1990年代に入ると、共産陣営の総本山たるソ連の崩壊や(及びそれに伴うアメリカの一極化)、そして「腐敗しない権力はない」とばかりに傲慢になっていた大きな政府たちへの不満が爆発すると、ご存知のように再び時代は「市場こそ万能薬だ!」という意識が支配するようになります。およそ100年ぶりにやってきた市場の黄金時代であり、そしてかつて起きたようなことの逆回転が起きました。
政府とは暴走しがちであり、失敗することが多く、カバーしきれない分野が多く、そのリスクも大きく、政府が悪用される可能性も大きい、つまり――政府に任せるくらいなら他のものに任せた方がマシだ、と。ならば市場に任せようではないか、今こそ『新』自由主義だ、と。


で、そんな黄金時代は20年ほど経った現在、再び死に瀕しているわけです。いやぁ思ったよりあっさり逝ってしまいましたよね。
さて、ここで再び転換期に入った(かもしれない)時代に生きる私たちには、これまでにない新たな問題が突きつけられているのです。それはその市場が死ぬのが早過ぎたせいで、政府の失敗、という記憶が私たちにはまだ鮮明に残り過ぎている。
近代以降にあった時代の流れ、市場の時代→政府の時代→市場の時代→、というサイクルでいくならば次は再び政府の役割が増大すると言えるのでしょう。しかし今更政府の役割を大きくするには、未だその不信感は強すぎてどうにもならないのです。もっと時間が経過して、あと数十年経った後ならばできるかもしれないことが、今の私たちには記憶があり過ぎて不可能なのです。
まぁ勿論それができたとしても上手くいくとは限りません。実際そのどちらに任せても失敗してしまうからこそ、上記のようなサイクルが起きているとも言えるわけで。


そんな管制高地を、政府にも任せられないし、市場にも任せられない、じゃあ一体どうしたらいいんでしょうね?
第三の道でもあればいいんですけど、しかしまぁ大抵の場合「第三の道をとるべきだ!」なんていう輩はつまり何も案がないとイコールでもあるわけで。いやぁ私たち詰んでますよねぇ。こうして概観すると、オキュパイなんちゃらと駄々をこねてみたり、あるいは半ば自暴自棄に「資本主義は確実に崩壊することが判明 」と言いたくなる気持ちはわからなくもないかなぁと。


がんばれ人類。