「早すぎた」のに「腐っている」とはこれいかに

「進歩したはず」なのに「現実から取り残されている」と呼ばれるが如し。そんな日本人の平和主義と暴力性のお話。しかしタイトルはどう見ても某巨神兵です。早すぎたからこそ腐ってしまっている人たち。


http://www.bllackz.com/2011/12/blog-post_26.html
「忘れてしまったヒトとしての『暴力性』を思い出せ」ですって、どっかのSFにありそうなお話ですよね。最近のだとダン・シモンズ大先生の『イリアム』と『オリュンポス』のテーマのひとつにもあった気がします。暴力をとりもどせ。クリスタルキングさんが歌いだしそうです。実際、「邪魔する奴は指先ひとつで、ダウンさー」などと愛を取り戻すには暴力が必要だと身も蓋もなく歌っていますし。


ともあれ、まぁ賛成できるかどうかはともかくとしても、言っていることは解らないお話ではありませんよね。暴力に縁がなくなってしまった私たち、故に現実離れしてしまっている私たち。確かにそれはその通りなんでしょう。
しかしそれが簡単に退行などと言い切れるかというと、そんなことないんじゃないかとも思うんですよね。むしろ政治や社会から(少なくともすぐに目に見える表面上から)暴力性を隠そうとすることこそが、近代以降に私たちが獲得した道徳や権利意識のひとつでもあるわけです。故に私たちは野蛮な過去の世界ではなく、今を生きている現代人として振る舞っているのだと。やっぱりそうした非暴力性を目指す思想は人間の進歩の証でもあるのです。
もちろんこうした社会の仕組みや意識を「欺瞞」と切り捨てる人たちの気持ちも理解できなくはありません。しかしそれでもそんな理想社会を望むこと自体は、誰にでもあるごく普通の感情だとも思うんですよね。それこそ「心の温かい人物であれば、現在の社会にある悲惨さについて考えるようになったとき、平和主義者になるのはほとんど避けがたいことだ」なんて。
問題はそんな人びとの意識に現実が追いついてきていない、という辺りがこの話の悲しい所なんでしょう。現実より先に進みすぎてしまった人たちの悲劇。まぁさらに悲劇的なのが「将来ほんとうに追いついてきてくれるのか」さえ解らないわけですけど。


さて置き、僕がこのお話を見た際に思い出したのが、上記で引用したハイエク先生の講義でのお話なんですよね。「心の温かい人が、現在の社会にある悲惨さについて考えるようになった時、社会主義者になるのはほとんど避けがたいことだ」という彼がロンドン大学での最初の講義で言われたとされているお話。
ということでもし僕がトチ狂って上記リンク先の著者ように、暴力性がなくなった日本人を憂う、なんて暑苦しいことをやろうと思うならそれを改変して次のように書くと思います。

心の温かい人物であれば、現在の社会にある悲惨さについて考えるようになったとき、平和主義者になるのはほとんど避けがたいことだ。
しかし国際関係の歴史を学べば、もっと保守的な立場をとるようになるだろう。しかも、過激な運動の基盤になっている「倫理面の動機のすべてに最大限に共感する」人たち、「平和主義や非暴力主義が約束どおりの成果をあげると信じられるのであれば、心から喜ぶ」人たちこそがそうなるのだ。

何故かって、そうした戦争の教訓こそが一見遠回りで逆説的に見えながら、しかし平和状態を作るのにもっとも成功率が高い方法だからです。