死刑議論における当事者意識と非当事者意識の役割について

みんな大好き死刑のお話。みんな本当に死刑(のお話)が大好きだなぁ。



「自分の子どもが殺されても 同じことが言えるのか」と 書いた人に訊きたい|森達也 リアル共同幻想論|ダイヤモンド・オンライン
わーたのしそー。一体彼は何と戦っているのだろう感がすごい。ニコニコのコメントやtwitterの有象無象の皆さんに「バカ」と言われて腹が立つのは解りますけど、だからといってそれと同レベルに「バカって言う奴がバカなんです!」とやり返しても何の意味も無いだろうに。まぁそんな風に客観視できたらそもそもそんな低レベルの争いなんて発生しませんよね。やっぱり『争いは同じレベルの者同士でしか発生しない』わけだし。

 当事者には当事者の感覚があるし、非当事者には非当事者の感覚や役割がある。もしもあなたの友人が、「身内をアメリカ兵に殺されたイラク人の気持ちを想うとアメリカが憎くて仕方がないので報復してやる」と言ったなら、あなたはきっと呆気にとられながら、「だけど現実におまえはイラク人でもないし家族をアメリカ兵に殺されてもいないじゃないか」と止めるはずだ。非当事者である日本人にできることは、イラク国民の応報感情にすっぽりと同調することではなく、復興支援とかアメリカへの提言とか、他に幾らでもあるはずだと説得するはずだ。
(中略)
 でもあなたは被害者遺族ではない。気持ちを想うことと、恨みや憎悪を共有することは同じではない。想うことと一体化することは違うし、そもそも一体化などできない。被害者遺族の抱く深い悲しみや寂寥(ルビ=せきりょう)、守ってやれなかったと自分を責める罪の意識や底知れない虚無、これを非当事者がリアルに共有することなどできない。

 一体化したかのような錯覚に陥っているだけだ。それも表層的な恨みや憎悪などの応報感情を。だから軽い。ぺらぺらと油紙のように燃えやすい。例えば以下の書き込みのように

「自分の子どもが殺されても 同じことが言えるのか」と 書いた人に訊きたい|森達也 リアル共同幻想論|ダイヤモンド・オンライン

けどまぁ概ね仰りたいことは解ります。当事者感情と非当事者感情は別物であると。確かにその通りです。故にそんな「被害者の気持ちも考えてみろ」という主張は否定されるのだと。


でも実際のところこれって同時にまた、だからこそ死刑が廃止にならない理由、にもなっていると思うんですよね。廃止論者の貴方がそれを言ってしまったら、それはむしろ敵に塩を送ってもいるんじゃないかと心配になってしまいます。私たちは同様にまた、非当事者という意識があるからこそ、死刑を容認しているんじゃないのかと。
つまり廃止論者たる人たちの「同じ『人間』らしい扱い・尊厳を守るべきであり、故に死刑制度は廃止されるべきだ」といった主張があまり広く受け入れられないのは、死刑判決を受けるような犯罪者が(身も蓋もなく言ってしまえば)同じ人間であるという当事者意識が持てない・廃されているからこそ死刑を容認しているからではないでしょうか。
そうした人たち(僕自身も含めて)は、だからこそ、非当事者として感情や一体感ではなく純粋に合理性の視点から(死刑の執行による犯罪抑止効果として*1)死刑を容認するのでないのかと。そして逆に、同じ人間であるという当事者としての感情こそが死刑に反対させる。
もちろんこうした見解や議論が全てであると言うつもりもありませんが、しかし一般に死刑廃止論者こそが「同じ人間である」という視点から、より当事者意識を喚起すべく啓蒙活動に動いているんだと僕は思っていましたけど違うんでしょうかね?
死刑廃止論者の皆さんはそんな当事者意識から死刑に反対し、しかし死刑容認論者の皆さんは非当事者意識から死刑を容認する。こうした構図もごく普通に――むしろ主流として――ありえるお話ではないのかなぁと。





さて置き、でもそんな彼のお話は別にこうした議論を出さずとも自分の記事内で既に反対側に着地してしまっているんですよね。投げたボールが見事に自分に向かって跳ね返ってきている構図。

 こうして虚偽の事実がメディアによって消費され、人々の意識が変わり、制度が変わり、法が変わる。それによって損害を受けるのは、「被害者遺族の身になれw」とか「自分の子供が殺されても同じことが言えるのか」などとネットに書きこんでいるあなたかもしれない。

「自分の子どもが殺されても 同じことが言えるのか」と 書いた人に訊きたい|森達也 リアル共同幻想論|ダイヤモンド・オンライン

そんな彼らの「被害者遺族の身になれw」「自分の子供が殺されても同じことが言えるのか」という言葉を前半では錯覚だとばっさり切り捨てておきながら、しかし結論部分において「彼らには当事者意識がない」と嘆いてしまっているのでした。
「それによって損害を受けるのは(実は当事者であると言う意識の無い)貴方かもしれない」……いや、それを言ったら上で貴方がやっていた反論はどうなってしまうんですか……。前半部分では「でもあなたは今は当事者ではない、だからこそ」なんて言っておきながら、最終段になって全く反対に「もっと当事者意識を持って言うべきだ」なんて言い放つ人。
こうした死刑議論において、当事者ではなく非当事者として判断すべきなのか、それともやっぱり当事者として見るべきなのか。えーいどっちやねん。


うん、まぁ、そんなやり方じゃやっぱり廃止論者の人を説得できるはずもないよね、と生暖かい気持ちになってしまいます。「軽くてペラペラ」な相手のレベルに合わせてしまった故の悲劇、と言ったところでしょうか。

*1:それを証明して見せた代表的なアイザック・アーリック先生らの主張に反論がある人も当然いらっしゃるでしょうけど、この日記の主題は別にそこではないので一つの見解として納得してくださると幸いであります。