死刑議論で見られるねじれ現象

そんな単純な話ではないだろうという突っ込みに関してはその通りでございますので、笑って許してください。


闇サイト女性殺人、無期確定へ…最高裁死刑回避 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
闇サイト殺人、被告の無期懲役確定へ  :日本経済新聞
ということで死刑が回避されたそうで。その「一人を殺害した」という数字を優先するか、あるいはその事件の残虐性を優先するべきか。
えーと、まぁ僕としては「正義がなされなかった!」と怒るほど普段の生活において正義の存在を確信しているわけでもないし、かといって「死刑によって生命を奪うなんて野蛮だ!」と怒るほど世界各地で進行している虐殺で真剣に頭を悩ませているわけでもないので、特に思うところはありません。赤白どっちもがんばれ。


そうしたお話とは関係なく、しかしこうした死刑議論を見ていて改めて思ったんですけど、こうした死刑議論って所謂リベラルな人たちとそうではない右側な人たちの立ち位置が見事に入れ替わっていて面白いお話だなぁと。
例えば、普段は人権的な唱える人たちが当事者たちのその『感情』を重視して議論を進めていくのに対して、逆のポジションに居る彼らは経済的・政治的正しさを軸に議論を進めていくじゃないですか。市場主義だとか、平和主義や基地問題だとか、最近の原発の議論なんかでもそうですよね。一方はその『感情』を後ろ盾に自らの主張を正当化するのに対して、もう一方は『論理』や数字をその主張の後ろ盾にする。
被害者がかわいそう派と、いや数字的論理的には合理性があるから派。
いや、別にここで「感情だからダメだ!」とか「論理だからダメだ!」とか、その是非について話し合いたいわけじゃないんです。ていうか広く支持を集める上ではどっちも同じくらい重要ですよね。感情だけで物事を動かせると思っている人もアレだし、同時にまた数字だけで説得できると思っている人もかなりアレであります。


他の議論では感情の問題こそを優先していながら、しかしある問題では感情の問題など大したことないだろうと一蹴する。
他の議論では数字や論理こそを優先していながら、しかしある問題では数字や論理など大したことないだろうと一蹴する。


それ以外では概ね共通しているはずが、死刑議論になるとなぜか、何故かリベラルな死刑反対の人ほど「死刑による抑止効果なんてない!」とその数字を否定し、逆に保守的な死刑容認の人ほど「だったら被害者遺族たちの感情はどうなるんだ!」と感情面について叫ぶようになる構図。それぞれそれどちらも180度逆のポジションに何故か立っていますよね。
死刑の議論におけるねじれ現象。
こうした構図を改めて考えるととっても愉快なお話だなぁと思ってしまいます。まぁ人間なんてそんなもんだと言ってしまってはそれまででありますけど。こうしたことをお互いに自覚すれば他の議論を進める上で、もしかしたら相互理解が深まったりするんじゃないでしょうか。


うん、なさそう。