なぜイジメはなくならないの?

答「集団生活なんてモノを学校で教育しようとするからです」


私たちはみんな「いじめ」の共犯者だ マキァヴェッリ先生ならこう考える(27)(1/3) | JBpress(日本ビジネスプレス)
いやまぁ仰りたいことは解るんですけども、しかしそれが現実に可能なのかというとそうではありませんよね。まぁマキャべリ先生のお話と絡めたのは面白いと思いますけど。

 いじめ問題における「君主」とは、学校教師や子供の親、そして世論です。その「君主」が、正義より秩序を優先し、いじめられた側よりいじめる側の自由を尊重している。そんなことでいじめが解決するわけがありません。

 我々もまた邪悪に染まり、いじめの共犯者となっている。

 そうした自覚が国民全体に共有され、いじめられた側が転校するのが当然とする社会常識を変えない限り、いじめはこれからも続き、犠牲者は出続けて、自殺者が出たら話題になるだけで終わるでしょう。

私たちはみんな「いじめ」の共犯者だ マキァヴェッリ先生ならこう考える(27)(1/3) | JBpress(日本ビジネスプレス)

しかし個人的にはこの方の仰る、イジメの発生する理由が親や学校や世論という「君主」の不作為だ、というのはあんまり賛成できないかなぁと。やらないことと出来ないことにはやっぱり差があるわけで。最初にも書いたように、やっぱり子供の学校での集団生活といっても、それは本質的には私たち大人が過ごしている『社会』と何も違いはないんですよね。故に私たちの社会で起こりうることは、当然子供の社会でも起こりうるのです。
けどそれは、大人の世界にもイジメがあるんだから子供のそれにもあるだろう、とかそういう次元の話ですらないのです。

社会が社会である為に

例えば、もし私たち大人がその属する社会のルールに従わなかった場合、一体どうなるか? ――もしそれがあなたの勤め先であれば免職停職減給戒告などを不幸にも頂戴してしまうでしょう。そうやって私たちは政治的・経済的な罰を恐れるからこそ、その社会におけるルールを積極的に守り社会の一員として振る舞おうとする。それはどんな社会においても、こうした統制には必ず存在しているのです。消極的社会統制だけでなく、同時に賞与などの積極的社会統制も並行して作用させることによって、私たちは一つの社会集団を維持している。
それはやっぱり子供の社会においても同様なのです。彼らは私たち大人と全く同様に、社会統制の為にそうした行為に走ってしまう。私たち大人が用いる法的・政治的・経済的制裁と、そうした子供たちがイジメとしてやる暴力・からかい(嘲笑)・無視というやり方は本質的には同義のモノと言えるのです。イジメと言っても、しかし彼らは適切に原始的な社会統制を実現しているに過ぎないのだから。まさに社会の縮図ですよね。
だから子供のイジメって攻撃反応と言うよりは、むしろ防衛反応に近いと思うんです。彼らはその社会集団の一体性を保持する為に、社会統制の一種として、そうした行為に走ってしまう。大人であれば躊躇うやり方を躊躇なく実行する。
大人が属するような『組織』な社会ではなく、子供たちの個人間の感情で結びつくような――社会学でいうところの「第一次集団』――社会においては、そうした防衛反応はより原始的な手法が用いられることになる。どんなグループでも多かれ少なかれそれは起きているのです。そして勿論そこには個人の能力差と、そして『運』があって、ハズレを引いた人たちは見事にそのイジメの構図へ嵌ってしまうと。
私たち大人であればより穏当な、政治的・経済的な手法で運用するそれを、彼ら子供たちは見事に子供らしいやり方で実践する。暴力だとかからかいだとか無視だとか。当然ですよね、だって彼らは子供なんだから。まぁ偶に大人でやる人はちらほら居たりしますけど、私たちは普通それを見て「ガキ臭いことやってるなぁ」と生暖かい気持ちになってしまうのでした。
だから私たち自身もかなりの部分理解しているはずなんですよ。彼ら子供はまさに子供ゆえに、そうしたイジメという社会統制のやり方に簡単に走ってしまうのだと。


逃げ場のない子供たち

さて置き、この構図で真に不幸なのは、彼ら生徒たちはその社会=学校=クラスにおいて全く逃げ場がない、という点に尽きます。
彼らはその社会を選択の余地なく与えられて、もし失敗してもそこから逃げることも出来ないのです。その社会に合わなければさっさと逃げれば良かったものの、しかしそれすら許されていない。かくしてその社会での逸脱者たち、あるいは潜在的逸脱者たちは、逃げ道もないまま社会統制という名のイジメ=圧力に延々と晒され続けてしまう。
上記リンク先ででは「やられた方が逃げるなんておかしい」とお怒りになっていますけど、実のところ、決定的にやられるまで逃げることさえ出来ない、ことこそがイジメ問題の最大の悲劇なんじゃないかと。
その意味においては「イジメられた方が逃げる」というのは、実はかなり正解に近いのです。むしろそこで問題なのはその社会から「逃げる」ことが悪いことだと一般に認識されている方なんだと僕は思います。そのクラスが合わなければさっさと他のクラスへ行けばいいんですよ。そうした選択肢がまったくないからこそ、クラス内部での加害者と被害者の関係は固定化し、その社会維持の為の統制は無限にエスカレートしていく。一緒になってイジメること、あるいはそれを黙認することこそがその社会の一員の証明であるという歪んだ構図にまで。
「クラス一丸となって頑張ろう」とか。確かにそれは美しい光景ではあります。しかしそんな風に社会を強固にすればするほど、むしろ内部では逸脱者へのプレッシャーは増していくというのに。まぁもちろんただ逃げているだけでは何も解決はしませんし、「社会生活を培う」という学校そのものの存在意義が危うくなってしまいますが、しかし少なくとも短期的には『自殺』にまで至るのは防げます。
彼ら生徒たちはその(睡眠時間を除いた)一日の活動時間の半分近くをその社会の中で過ごさなくちゃいけないわけで。そのクラスという名の社会の適応に失敗した場合、見事にそこは人生の牢獄そのものとなってしまう。そりゃ自殺もしちゃいますよね。



無力な君主たち

こうした構図において一体どうやればそんな彼らのイジメ、という名の社会統制を抑止する事が出来るんでしょうね?
その統制メカニズムそのものを抑止することは不可能であります。だってそれは私たちが「一緒にいよう」という気持ちから生まれる必然のものなんだから。それは彼らが一緒にいようと社会集団を形成する理由でもあるのです。それを維持しようとする為に、彼らは逸脱した人間を責めるようになり、いつしかその手段が目的そのものへと昇華していく。いやぁどうしようもありません。
だからもし外部から――例えば『教師』の存在によって、そのイジメ=社会統制を抑止しようとするならば、彼らの人間関係の成立そのものにまで踏み込まなければならないのです。
そして今の教師たちにそれが出来るかというと……まぁ無理ですよね。
典型的なブラック労働な人たち - maukitiの日記
先日の日記でも書きましたけど、現在の何の権威も持たない教師の皆様にはどうやったって無理です。やらないことと出来ないことは、やっぱり別の問題であるのです。
「君主」たる教師にその生徒たちの意識・価値観・ルールを根底から覆すだけの介入力がなければ、どこまでいってもそれは絵に描いた餅でしかないのです。どれだけ言葉を尽くしたとしても、その社会の構成員たる彼らの主流の意見を変えられなければ意味がない。仮に成功したとしても、「先生に強制された」と子供に言われれば親が飛んできてしまうこんな世の中じゃポ


クラス制度なくしますか? イジメなくしますか?

結局、現状クラス制を用いての学校というシステムにおいては、社会性を学ぶこととイジメを減らすこと、はかなりの部分トレードオフなってしまうんですよね。イジメを本気でゼロにしたいならそれこそクラスなんて無くしてしまえばいいわけで。でもそれじゃ集団生活もクソもありませんよね。
ということで「学校のイジメ問題」に関する僕の適当な見解としては、

  • 子供がさっさと逃げることの出来る環境を作る(クラス制をやめる)
  • あるいは介入者たる教師に後ろ盾となる強権を与える(親の介入をやめさせる)

の二択に絞られると思います。


みなさんはいかがお考えでしょうか?