優生学への道は善意で舗装されている

だからこそそれは誕生以来、大きな悲劇があったとしても、しかし賛同者は絶えないわけですよね。


妊婦の血液でダウン症診断 5施設で9月以降導入 中絶大幅増の懸念も - MSN産経ニュース
朝日新聞デジタル:妊婦血液で出生前にダウン症診断 精度99%、9月導入 - 社会
うわーなんという悪魔的に魅力のある選択肢でしょう。
まぁその是非については色々ありますけれども、しかし普通に実際面のお話をすると、日本では中絶云々の件については個々人の領域でありそこまで社会全体の問題として扱われない傾向にあるので、こうした検査も将来的には粛々と整備されていくのかなぁと思ったりします。特にこうした検査が最も必要な人たちである「高齢出産を望む人たち」はやっぱり多いわけだし、そんな需給の面からの要請としても。その意味で、あくまで対費用効果という面だけ見れば、議論の余地なく進んでいくのではないでしょうか。


痛いニュース(ノ∀`) : ダウン症か99%わかる出生前診断導入に人権団体が異議 日本ダウン症協会「ふるい分けするな!断固反対」 - ライブドアブログ
しかしまた同時にほとんど議論されないからこそ、こうした事前検査――そして中絶というコンボは事実上の『優生学』にまで至ってしまう、という彼らの懸念は解らなくはないんですよね。
私たちは、「障害がある」というだけで生まれてくるのを許さない、ことを許していいのか?
勿論それを既に生まれている人間にやってしまってはぶっちゃけナチスのような蛮行とほとんど違いはないと知っていながらも、しかしそれを『胎児』にやるのは許されると考えている。もう生まれた人間には許されないが、しかしまだ生まれていない人間には許されると考えている。
それってどちらも同じ人間じゃないのか? 
一体いつから人間は人間として扱われるようになるのか?
――と中絶の反対派な人に言われた時、まぁ僕としては困ってしまうんですよね。基本的には中絶容認派ではありますけども、しかしそこに明確に答えを出すことができない以上、こうした問題にはやっぱり口を噤むのが最低限の態度であるのかなぁと。まぁもちろん「本人の自由にすればいい」なんてヌルいことならば幾らでも言えますけども、しかしやっぱりその論理ってつまり「親の決めたことであれば子供の生死さえも左右できるのか?」と問われてしまうとやっぱり困ってしまうわけだし。「胎児は人間ではない」と簡単に割り切れたら楽ではあるんでしょうけども、しかしそれはそれでまた別の問題が生じてしまいますよね。
かくして私たちはそれを「個人の問題である」として政治的社会的議論からパージする一方で、アメリカなどでは大統領選挙のネタにまでしてしまう。いやぁどっちが誠実でどっちが不誠実なのかよく解りませんよね。


助けてサンデルえもーん!(しかし彼の著作を読んでも別に助けてくれない)