軍事行為のアウトソーシングについて

リベラルな人たちのはずが一周回って超保守派に辿り着いている構図。


「殺人ロボット」は国際条約で禁止を、人権団体が警鐘 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
このお話で心底無理筋だなぁと思ってしまうのは、全自動ロボット兵器の導入が「市民の議論を一切経ずに進んでいる」のはともかくとして、しかしいざ実際にその議論を進めようとした場合「兵士が死ぬ代わりにロボットを用いることに反対なのですか?」と言われたときに、まぁものすごく困ってしまうしかない点ですよね。ぶっちゃけその議論に勝つのはすごく難しいと言わざるを得ません。あるいは、人間の関与がどれほど残されていれば許されるのか? 等へいくと不毛なことにしかならないだろうし。
まさか「張り切って戦死者を減らそうとしている」に対して「生身の兵士が死んだ方がマシです!」とぶっちゃける訳にもいかないだろうし。
それを人権団体が訴えるという愉快な構図。まぁ「そもそも『兵士』に人権なんてないのだ」とまで仰るのであれば仕方ありませんが。


ともあれ、しかしこのお話を敷衍していくとそれなりに面白いお話ではあるんですよね。自らが引き金を引くことの責任を負わなければそれは何処までも暴走していってしまうだろう、というのはそれなりに正しい指摘ではあるとは僕も思います。うちの日記でも何度か書いてきたネタではありますが。
「殺していいのは殺される覚悟のあるやつだけだ」なんて。
つまり、今回のお話はかなり戦場レベルでのミクロなお話として扱われていますけども、しかし一方で、マクロな視点から見ると社会における『軍隊』の自律行動化というのはまぁものすごく進んでいるわけですよね。徴兵制から志願制へ。最早「国民皆兵」という言葉も遠くになりにけり。かつては社会の一員として当然の義務でもあった兵役の義務は、しかし現代社会では完全に分離されているわけです。更にはイラク戦争でクローズアップされたように、傭兵や民間委託という形でもそれはより分離しつつある。
かくして「失われつつある人間性」という議論へ。
程度の差はあれど大多数の市民にとって現代の軍隊って最早「意識の外」へと向かいつつあるのは間違いないでしょう。現代先進国に生きる私たちは戦場で殺すのも殺されるのも既に日常から完全に切り離してしまっている。そうした乖離についてはやっぱり批判もあるわけです。「(志願制などによって)軍隊と社会は切り離され、故に人々は戦争に対して真摯に向き合わなくなるだろう*1」とか。そしてその議論の一部として徴兵制の是非があったりする。まさに自分自身の生命を晒すリスクと引き換えにするからこそ戦争行為に対し無責任な態度にはならずに真摯に取りくむことができる、と。
一般に徴兵制復活というと、うちの国のアレな人たち――若者の教育だの何だのとバカみたいなことを言いだす人たち――を思い出してしまいますけども、しかしこうした「社会と軍隊の関わり合い」という点からすると、やはりそれなりに是非のある議論にはなったりするのかなぁと思ったりします。
そして、そうした今更な構図がよりミクロ兵士たちの世界にも到達しつつあると。


兵士が「何ら責任を負わないまま」ロボットを使って戦争行為をすることと、市民が「何ら責任を負わないまま」軍隊を使って戦争行為をすること。
その意味では前者の自律稼動による『殺人ロボット』の導入は、これまでの現状とどれほど違いがあるのか、という気持ちにはなってしまうんですよね。むしろ問題としては後者のほうが大きいんじゃないのかと。どこまでいってもそれは程度の問題でしかない、と言ってしまえばその通りなんですけども。
私たちは一体どこまでそんな重要な行為をアウトソーシングすることが許されるのか?



みなさんはいかがお考えでしょうか?