「上を見て感じる不満」と「下を見て感じる満足」の均衡点

「隣の青芝」と言ってはそれまでではありますけど。


幸せを感じる年収や通勤時間:統計からの回答|WIRED.jp
へーというお話ではあります。へー。

幸せは自分の内側から生じると説く本もある。しかし、現実的になろう。心の満足とは、お金や友達の数、子どもがいるかどうかなどといった外的な要素にも大きく影響される。そして、それらはたくさんあればいいというものでもない。ちょうどいいバランス点はどこなのか、科学的調査の結果を調べてみた。

幸せを感じる年収や通勤時間:統計からの回答|WIRED.jp

結局のところ、ギリギリ手が届かない平均より少し上辺りが幸福に見える、というとても人間らしいお話なのかなぁと。そりゃそうですよね。そこに至るまでの費用とリターンという対費用効果で見た場合、おそらくそこが最もコストパフォーマンスの高いだろうから。それより上はおそらくそのCP比が逓減していくのだろうし。だからこそ『平均』でもあるわけで。


「仕事の量は多すぎても苦労するけど、逆にまったく無いとそれはそれで苦痛だ」し、「給料は多ければそりゃ嬉しいけど、だけど代わりに失うモノも多いだろう」し、「子供は多いと大変そうだけど、0人だと寂しいことになるだろう」し、「通勤時間は少ない方がそりゃいいけども、しかし職場に家が近過ぎるとそれはそれで窮屈そうだ」なんて。
無さすぎても苦労が多そうだし、逆に多すぎてもその為に犠牲とするものが大きすぎるだろうからノーサンキューです、というとても現実的な判断。かくしてそれは平均値よりも少し上に収束することになる。
やっぱり他者との関係性に生きる人間らしい解答ではあります。いつだって微妙に手が届かない平均より少し上を目指してしまう悲しいサガ。全員が幸せになろうと正しく努力すればするほど、しかし同時にそんな努力が幸福=平均の少し上のラインまでも上昇させてしまう。みんなで幸せになることなんてできない。人間って悲しい生き物だなぁ。
まぁだからこそ、人類という動物がこうしてひたすら前に進む事ができる、とも言えるのでしょう。例え一部の人たちが満足して立ち止まろうとも、だからといってそれ以外の人たちまでもが満足することなどない。人間っておそろしい生き物だなぁ。


ちなみに、こうした相対的な観点から社会における『幸福の総量』を最大化させようとすると、最も効率的なやり方は「人為的に被差別層を設定することで人心を満足させる」というアレな方法一直線へと至ってしまうので大変危険です。古今東西の歴史を見るとほとんど常に存在していた階層社会って、何気に上手くできているよなぁと違った意味で感心してしまいますよね。
一方で現代に生きる私たちは、そんな最高効率のやり方を「敢えて」避けようと努力している。人間らしいやり方ではなくて、その一歩先のステージへ。はやくニュータイプになれればいいのにね。この辺りの葛藤は色々考えてしまうお話だなぁと思ってしまいます。