健全な『支配の取引』がもたらすもの

マグナカルタ以来続く、現代国家運営に必要不可欠な「支配する側」と「支配される側」の不文律・暗黙の了解。それによる両者の力の均衡について。



エジプト大騒乱で忘れられゆく問題の本丸 - maukitiの日記
昨日の日記で頂いたコメントから考えたお話。私たちが安定した民主主義制度を維持できる理由と、そうではない国とを分かつもの。
政治システムとして民主主義的政治が優れているとされる理由の一つに「支配する側」と「支配される側」の不文律・暗黙の了解が極めて安定的――もちろんそれが不死身なわけでは決してない――である点があるわけです。政治家は国民を選挙によって合法的に代表することでその権力の正当性を確保し、一方で市民も同様に法に従いそして税金を支払うことで国家から政治的権利と公民権を保証される。
そうやって国家の内部では、両者の『支配の取引』は均衡し、お互いに抑制された振る舞いこそが最適解であるとして政治秩序の安定が実現される。


なので一般に民主主義の利点としては前者(政治家は市民の手で選ばれる)が語られることが多いわけですけども、しかしまた、両者のパワーバランスの均衡という意味ではそれと同じくらい後者=市民としての意識の有無こそが、安定した民主主義国家と開発途上国にある不安定な政権を分かつ壁でもあるのです。
つまり民主国家に生きる私たちは、幾ら気に食わない政権を選んでしまったとしても――もちろん選んだのは自分たち自身なのだから当たり前の話ではあるんですが――次の選挙を大人しく待ち、更にはその間も法を遵守し税金をきちんと納め続ける。だってその政権が幾らクソであろうとも、国家は官僚や公務員たちによってきちんと機能し続けているのだから、と確信している。
だからこの関係性というのはかなり両義的な側面があるのです。政治家の方が最低限のラインを守るのであれば、市民の方だって同じようにしよう。逆に市民の方がそれを守っている限り、政治家だって無茶なことはしない。両者の合意に基づく紳士協定。
故にそれは、支配する側とされる側の『取引』、であるわけです。


その現代民主主義国家における『取引』へのバランス感が発揮された代表例の一つが、あの米国大統領だったニクソンさんが任期中に辞職に追い込まれたウォーターゲートであるわけです。あのように明らかに現役大統領の責任を問う疑獄であり、その後に憲法に則って職務が副大統領だったフォードさんに委譲されても、しかし大多数のアメリカ国民は(驚き怒りながらも)個人としてはほとんど変わらぬ日常生活を送っていた。それはまぁ世界中の少なくない「非」民主主義国家の人々にとって驚きの風景であったわけです。一国の最高権力者が辞任に追い込まれても、しかし個々の国民の生活にはほとんど影響がなかった、あるいはまるで無いように振る舞った。
そこまで劇的な例ではないにせよ、去年の日本でも私たちは近いことを実践していたんですよね。多くの日本人は民主党政権誕生前やその当初はともかくとして、世論調査やその後の選挙結果を見る限り、途中からはもうまったく政権与党に値しないと考えていたのは間違いないでしょう。そして実際にその通りに、その後の衆参選挙で二度連続して劇的な民主党は敗北した。しかしそうした怒りを内心抱えていても尚、大多数の人びとは選挙があるまでは粛々と日常生活を続けていたわけで。
まさか民主党政権が嫌だからといって――あるいは民主党政権誕生前の自民党政権が嫌だからといって、ごく当然の常識として遵法精神まで無くしたり納税を怠ったりしなかった。日本人エライ。でもまぁそんなの現代に生きる私たちにとっては当たり前の行動すぎて、別に意識してやっていることですらありませんよね。


しかし非民主主義の国家――特に開発途上国とされる国々では、まったくそう簡単にいく話ではないのです。つまり、そこでは民主主義とはまったく違う『支配の取引』が存在している。民主主義ではない国家にとって、国民の服従と引き替えに政府が与えるモノは、当然公民権や政治的権利の保障なんかではないわけで。
――では代わりに与えるものといえば、安定と繁栄・社会福祉・インフラ・治安維持という、まぁ身も蓋もなく言えばより即物的な『利益』そのものであります。
政治家は国民に利益を保証し、国民は政治家から利益を受け取る限りその正当性を容認する。
一般に独裁的な政府は、国民に利益を与えることを保障している限り、どうにかその政治的正当性を維持することができる。それはまぁ民主主義国家とは似て非なるものでありますよね。だから独裁政権というのは本質的にむしろ失政が許されない体制であり、故に彼らは強権であることしかできないのです。もし民主主義国家であれば仮に何度か失政したとしても、上述したような最低限の市民の権利を保障している限り、市民達が反感を抱いたとしてもその合法性そのものまでは否定されない。
ところが途上国に見られる独裁政権では、国民への利益供与に失敗した場合、一気に政府の合法性そのものへの瑕疵へと直結してしまうのです。そしてそれは、政府が合法的存在でないのだから上記独裁政権版『支配の取引』に従って、自分たち国民たちも合法的である必要はないのだ、という地平にまで至ることになる。政府が利益を与えてくれないのならば、最早自分たちも法を守り税金を納めるなんて唯々諾々と従う理由などない、なんて。


かくして独裁政権の崩壊は、そのまま法治・社会・経済秩序が全て崩壊することと、しばしば、ニアイコールとなるのです。
無政府状態は単純に政府の正当性が否定されるというだけでなく、それまであった『支配の取引』の両義性に従って、国民たちが「違法であること」を意識しなくなるということでもあるのです。
エジプトの現状は、見事にその典型であるんですよね。民主主義制という建前は建前にすぎず、それでもムバラクさんはどうにかこうにか補助金と、国外問題へと目を向けることで政権を維持し続けた。しかし、それがついに破綻したとき、政府のやっていることはすべて違法であり、それに呼応するように市民であることの意味も失われてしまいつつある。更には後継政権も当然不安定なスタートを切ることになる以上、必然的に失政を重ねる可能性は高くなり、またもや市民たちはその「利益をもたらしてくれる」はずの新政府の正当性をあっさりと否定するという負の連鎖が続くのです。
こうした構図はまさに現代における多くの途上国が抱える問題でもあるのです。政権が崩壊するとその後は無政府状態まっしぐら。かくしてその混乱を収めるために強権的な政権が復活する。


現代国家運営に必要不可欠な為政者と国民との関係性の定義である『支配の取引』について。
それに従うことで重大な政治的危機を致命傷になる前に回避できる国々と、まったく逆に、それに従うせいで政権が倒れる度に法治や社会や経済秩序までもが一緒に崩壊してしまう国々。


いやぁリベラルな民主主義は(安定したところにまで到達さえできれば)すばらしいなぁ。