もしドイツが肉食に再び目覚めたらどうなるの?

ヨーロッパの時代が逆戻りする。


http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/38669
ということで昨日少し触れた最近のドイツさんちのお話。

 英国の著述家ティモシー・ガートン・アッシュ氏は、ある質問に対するメルケル氏の、忘れられないほど特異な答えに光を当てている。ドイツについてどんな感情を覚えるかと聞かれたメルケル氏は、「しっかりと目張りがされた窓ですね」と答えたという。「こんなにしっかりと目張りがされた立派な窓はほかの国には作れないでしょう」
 なるほど、完璧な目張りが施された窓であれば、外界から飛んでくる汚染物質や雑音は――それがシリアの化学兵器だろうと、南欧の失業者たちが上げる抗議の叫びだろうと――見事にシャットアウトされるだろう。

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この辺の「ドイツはしっかり目張りされた立派な窓である」と言うのは面白いお話だよなぁと。昨日も少し触れたんですが、家の『顔』として窓を飾る文化はヨーロッパではそこまで珍しいものではありませんが、その中でもドイツや北欧などの国にとっては窓の「清潔さ」という点を特に重視するんですよね。一転の曇りなきガラス窓――同時にまたかつてナポレオンが「一年の内9ヶ月は冬である」なんて評したような寒い地方だからこそ、その二重窓としての頑強さも同様に。その窓は、善き人間の象徴でもある、なんて。
こうした文化的な背景を考えると上記の「優れたもの」として窓の比喩をあげるのは、東ドイツの伝統的価値観の強い家庭に育ったとされるメルケルさんらしい言葉だなぁと思います。




さて置き、そんな「しっかりと目張りされた立派な窓」のお話から見られる、現代ドイツさんちの「シリアのことなど知ったことではない」という一国平和主義について。

また、ドイツの政策立案者の中でも思慮深い向きは内々に、ドイツは偉大な貿易大国かつ世界第2位の輸出大国として、自国がほとんど貢献していない世界の安全保障体制に依存していることを十分認識している。
「シリアに関する我が国の立場は多少矛盾していると言える」。ある政策立案者はこう語る。「我々は、ルールに基づく世界を望み、シリアは化学兵器を使用したことで罰せられるべきだと言いながら、ほかの誰かが罰すべきだと言っているのだから」
ドイツの戦略家は、米議会がシリアに対する軍事行動を否決した場合の潜在的な世界的影響について、フランスおよび英国の戦略家と同じくらい不安を感じているように見える。

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まぁこの辺は以前書いた日本のそれとほとんど同じ構図ですよね。
にほんのへいわしゅぎはすばらしいなぁ - maukitiの日記
自国の平和を願っておきながら、しかし他国のそれには完全に無関心なひとびと。上記ドイツでは化学兵器の先駆者としての責任云々が言われていたりしますが、一方の日本ではまさに核兵器廃絶なんかがその典型であるわけで。つまり、私たちは唯一の被爆国として「核兵器をなくそう!」なんて声高に叫ぶものの、しかし現実の核拡散が徐々に進む状況――北朝鮮やイランなどにはまったく行動しようとしないし、あるいは政治家にそうすることを要求しない。せいぜいやることと言えば「原爆の悲惨さ」をひたすら訴えるだけ。まぁそれで無くせるのならばどんどんやれば良いと思うんですけども、しかし現状それが十分に効果があがっているとは言えませんよね。


ただまぁドイツのそうした『平和主義国家』というポジションは――最近まであった日本を取り巻く状況と同様に――ドイツ自身を含む周辺プレイヤーたちの一致した願いであるのです。ヨーロッパという地域においてドイツはあまりにも強力すぎるからこそ、そのドイツ自身が平和を望まない限りヨーロッパには平和は永遠にやってこない。
故に、そもそも欧州連合の基盤にある概念というのは「独仏が和解し協調すると同時に両者が国力上の優位を抑制している限り、他の中小国はその指導的立場を容認する」というものであるのです。それはwin-winの関係であると言っていいでしょう。独仏は自らが欧州連合の主導権を握ることが出来る一方で、他の中小国にとっても限りなく安定した平和を手に入れることができる。
そうしたドイツの現状を安全保障の「ただ乗り」と断じてしまうのはあまりフェアではありませんよね。正直その変革を望んでしまうのは、ようやく実現したヨーロッパの平和の根幹が掛かってくる以上、あまりにもリスクが大きすぎる。イギリスはともかくとして、しかしぶっちゃけ近隣諸国の多くは、そのまま眠っていて欲しいと思っているんじゃないかなぁと。菜食主義で何が悪いのか。
この辺の現状は同じ敗戦国の後に平和主義国家として歩んできた日本とドイツの、似たような点は幾つもあるものの、しかし完全に同一視できない現状ではあります。明らかに中国に対抗するパワーの一翼を期待されるようになってきた日本であるし、同時にまた欧州連合東アジア共同体の創設に向けての単純にモデルとすることの難しさも。上記欧州連合の創設の経緯から解るのは、結局のところ、その域内における最大国家が協調路線を確信しなければ絵に書いた餅に過ぎないのです。じゃあ中国さんがそんなことを考えてくれるのかというと……以下略。




関連して、日本とドイツにある「平和主義による他国の問題の無関心さ」を考えたお話を次回。