とうきょうさいばんだいすき!

日本人の美しき無常感の裏にある、時間がすべてを解決してくれるさ感がもたらすもの。「この世は諸行無常、だから(放置したって)いいじゃないか」なんて。



安倍首相の靖国神社参拝:問題の本質は何か? 中国株式会社の研究(238)~東京裁判と国内問題としてのけじめ(1/4) | JBpress(日本ビジネスプレス)
ということで宮家先生の興味深いお話。靖国問題の本質について。年もあけたしそろそろ適当なことを書いても許されるかもしれないので以下適当に。

 現在の日本国内の議論の混乱は、「東京裁判による戦争犯罪」と「国内政治上の敗戦責任」が混同されたために生じているのかもしれない。

 要するに、靖国問題の本質は「東京裁判」や「A級戦犯」が国際法上有効か否かではなく、日本が国家として先の大戦の「国内政治上の敗戦責任」をいかに捉えるか、にかかっている。

安倍首相の靖国神社参拝:問題の本質は何か? 中国株式会社の研究(238)~東京裁判と国内問題としてのけじめ(1/4) | JBpress(日本ビジネスプレス)

まぁこの辺りは仰る通りかなぁと。現在でも、しばしば、東京裁判の是非や正当性について議論されたりしますけども、しかし私たちがあの『戦争』について考察し反省しようとする際に、真に重要となるのはそこではないんですよね。
――私たちがしなければいけないのは、東京裁判の結果を粛々と受け入れそれで満足するだけでも、あるいはパール判事が述べたように「勝者が敗者を裁くセレモニー」に過ぎず故に茶番であると拒否するだけでもないんですよ。
その意味では、やっぱり個人的にはパール判事は東京裁判について、心底正しいことを言っていると思います。だってあれは結局、日本人=敗者自身の手による「戦争の断罪と反省」ではなかったわけで。押し付けられたにせよ、受諾したにせよ、どちらにしても自分たちの手によるものでは絶対になかった。


現代に生きる私たちにとってほんとうに重要なのは、当時の政治指導者の一人であった東条英樹が、そして当時の人びとの間にあった「熱狂」「当事者意識の放棄」「時代の空気」というものが、一体何故あんなバカげた戦争に突入していったのか、ということこそを自分たちの手と頭で考えなければいけないんですよ。それを考える上で東京裁判の結論は、海外からどういう目で見られていたかという指針にはなっても、しかし当事者である日本人がどう考え反省しているかどうかはやっぱり別の問題でしかない。
こちらもしばしば指摘される、ドイツの戦後処理と日本の戦後処理の最大の違いは結局そういうところにあるんですよね。ドイツは少なくともそれを国家としてニュルンベルグ裁判の考察などを通じて、それなりに実践してきた。
――ところが私たち日本はそうしてこなかった。良くも悪くも私たちは東京裁判という出来事を絶対視しすぎてしまった。それさえ守れればいい、それさえ覆せばいい、なんて。
まぁその意味ではこの是非を巡る両者って逆説的に、かなり同じ立場に立っているんですよね。一方はそれを容認することで満足し自らの手による過去の反省を放棄しているし、逆に一方はそれを否定することこそを過去の真の反省と考えている。それは実はどちらにもメリットがある結論だったりする、両者の共謀による不作為。
どちらにしても自分の手による総括をしようとしない人たち。
いやぁ日本人はほんとうにどうしようもないなぁ。
私個人としてはやっぱり、東京裁判を全て受け入れ「戦犯は(東京裁判で罰せられた故に)戦犯である」と自らの手で考えることを放棄し全て断罪するのは過去の歴史に対して誠実な態度ではないと思うし、同時にまた東京裁判を否定するくせに自らの過去の戦争の総括(なぜそうなったのか)をしないのもやっぱり誠実な態度ではないと思います。
そんな日本人の不作為について。でもまぁ擁護できる一面もあったりはするんですよね。こうした歴史認識に至ったのは多分に日本人的な「無常感=時間の流れは全てを押し流す」という価値観と合致しただけでなく、それこそアメリカによる戦後占領下での日本に対する決定的な敗戦イメージの定着をねらったことの帰結でもあるのでしょうし。日本が二度と反抗しないようにその頭を徹底的に抑える、という一部アメリカ人の理想主義による占領政策の帰結。
それがなんだかんだで今日まで続いてきたことは、やっぱり放置しすぎだとは思いますけど。




ともあれ、こうしたことは戦後以来一部の人たちからずっと言われてきたし、そしてその上でこれまでもずっと放置されてきた問題でもあるので、今更といえば死ぬほど今更ではあるんですが。
靖国参拝の問題って結局こうした私たちが見て見ぬ振りを60年以上続けてきた問題を、意図せぬ形でさらけ出すことになっているんですよね。
私たち日本=敗者自身の手ではない、連合国という勝者によって成された極東国際軍事裁判の先にあるもの。私たち日本人自身があの戦争について、どう考えているのかという点について。あの戦争が間違っていたというのは、まず間違いなく圧倒的大多数の認識であるのは間違いないでしょう。まぁそこで出来るだけその悪行を小さく見せたいと願っている人たちがいることもやっぱり否定できませんけど。
――では、一体それがどんな風に間違っていたのか? 
――何故あんなことになってしまったのか? 
――ああならない為にその後に生きる私たちはどうするべきなのか?
もちろんそれが個々にもまったくなされてこなかったとは絶対にいえませんけども、しかしそれが曲がりなりにも(東京裁判から独立した)国家の共通見解として結実したことは、絶対になかった。


せいぜい「過ちは繰り返しませんから」なんてそれっぽいことを言うだけ。


そんな風に自らの手による答えを何も出せなかったからこそ、あの裁判の結果こそが日本政府の全ての公式見解であるという構図が事実上定着する。
だから東京裁判の結果に反発するような(A級戦犯が混じっている)参拝が直接にイコールとなって「過去の戦争美化だ!」という中韓などから猛烈な反発を受けることになのも、まぁそれ自体は解らない理屈ではありませんよね。だって日本という国家は、それ以外他に何も提示してこなかったのだから。
ここで両者は見事にすれ違うことになるのです。
一方はもう全て終わった過去の出来事でありそれとは無関係な「死者への悼み」と思っているものの、しかし、もう一方はその一点こそが日本の歴史認識の全てであると確信して。
いやぁめんどくさいお話ではありますよね。




みなさんはいかがお考えでしょうか?