日米を同盟関係にも、あるいは戦争状態にも導きかねない程度には重要なもの

脱亜入欧だのアジア解放だの。黒だの白だの。


「安倍靖国参拝」、アメリカの許容範囲はどこまでか? | 冷泉彰彦 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
靖国参拝を米国が許容できない理由 日米の認識のギャップ WEDGE Infinity(ウェッジ)
今も尚いろいろ続く靖国参拝の議論についてのお話を見ていて、先日の日記でも日本の側の都合は書いたけれども、そういえばアメリカ側の事情について書いてなかったなぁと思い出したので、以下靖国参拝が「誤解」させるのは何故か、というお話について。
つまりそれは、日米同盟の大前提、だからこそ。

昨年末に安倍首相が行った「靖国参拝」に関しては、駐日アメリカ大使館並びにアメリカの国務省本省から「失望」というコメントが出ています。この点については「これで日米関係が悪化する」とか「米中接近のきっかけになる」というレベルのものではないし、まして、この事件を受けて、アメリカの一般の世論における対日感情が悪化するということはないと思われます。

「安倍靖国参拝」、アメリカの許容範囲はどこまでか? | 冷泉彰彦 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

ということで中韓はともかくとして、失望先生とばかりに「失望したー!」というアメリカの反応は日本でも結構大きなニュースとして扱われているわけであります。まぁ普段は鬼畜米英とばかりに、日本のアメリカ追従のやり方を批判をしておきながらこういう時には政権批判のタネとしてのっかる人たちもいて、そっちにはやっぱり生暖かい気持ちになってしまうんですけども。


ともあれ、アメリカがこうしてなんだか微妙に生煮え具合で「失望した」とわざわざ表明するのにはやっぱり理由あるんですよね。それは単純に日本に対して、近隣諸国からの孤立を気にするとかそういう優しい理由でもないわけで。というか、アメリカは本当に自身の都合から、日本の「アジアでの立ち位置」を気にしないわけにはいかないんですよね。
――だってそれは日米同盟の大前提にあるものだから。
そもそも論で言えば、日本とアメリカが戦争した理由にも同じところに原因を求められてしまうわけで。つまり、かつての日本とアメリカが決定的に対立した理由は「中国をどう扱うか」という点にこそあったわけですよね。スティムソン・ドクトリンと、対華21ヶ条の要求。私たち日本は中国を自国の影響下に――それこそ欧米諸国がアジアやアフリカで普通に「植民地」としてやっていたように――置きたかった一方で、しかしアメリカは日本のそんな振る舞いを中国に許すわけにはいかなかった。
かくして1930年代の日本とアメリカは「中国の扱い」という点を巡って、運命の如く敵対していくことになるのです。まぁもちろん現代的価値観から日本側が完全に悪いと批判することはできますけども、一方で、結果論としてそんなアメリカの態度が完全に正しかったのかというと、やっぱりそう言いきれなかった。ケナン先生が『アメリカ外交50年』で仰っていたように、仮にあそこで日本を戦争なしで押しとどめたとしても、やっぱり長期的には確実に(日本と同じかそれ以上に厄介な)ソ連が代わりにそこへやってくるだけだろう、なんて。



そこでお互いに同意できれば緊密な同盟の基礎にもなるし、逆に、そこで不一致となれば戦争の前提にすらなる。それは日米関係を定義づける決定的要因。これからも、そして今後も。日米関係というのは、他の二国間関係と同じように、単純にアメリカと日本の関係性の良し悪しだけでそれが決まるわけではないのです。
日本は周辺国=東アジア諸国とどう付き合っていくのか?
だからこれはかつて私たち日本が失敗した理由であり、そして今後も考え続けなければいけない理由なんですよ。脱亜か否かというのは日本という国が存在する限り永遠に考え続けていかなければならない。イギリスとヨーロッパの関係が米英関係にに決定的に重要であるように、日本と周辺国のそれも同様なのです。


ところが私たち日本は本来それをきちんと考え直すべきタイミングであった戦後に、幸か不幸か、そんなことを考えなくてもいい猶予期間を得ることができてしまった。
冷戦構造というモラトリアム。
あの単純で分かりやすい世界は、日米関係の大前提にあったこうした問題を考えずに済んでいたし、逆にそれは中国や韓国にとっても同様だった。東側陣営との最前線の一つでもあったこの地域において、彼らにとっても「独自の」対日関係なんて考えるゆとりなんてなかった。しかし時代を経て、幸運なことに冷戦構造はついに終結した。ここで戦前にあった問題が再び蘇ることになるのです。
日本という国家は一体東アジアにおいてどういうポジションにありたいと望むのか?



だからある意味で冷戦以後になって、靖国問題が火がついたのって必然でもあるんですよね。
今頃なぜ? ではなくて、今だからこそ、なのです。
靖国に参拝すると言うことが、まるで戦前日本が目指したようなアジアの指導的ポジションへの回帰を再び決意しているように――少なくとも他者からは――見えないこともない。もちろん当事者である日本の内部に生きる一市民である僕からは、少なくとも軍事的手段によって成されるなんてことはほとんどそんなことまずありえないと思っていますけども、しかし、だからといってこれまでの日本の態度がそうした懸念を払拭できるだけの説明をしてきたのかというと、やっぱりそんなことありませんよね。
とうきょうさいばんだいすき! - maukitiの日記
先日の日記でも書きましたけれども、東京裁判を受け入れると言うこと以外には、ほとんど何もしてこなかった私たち。だからこそ、まったく正当な理由でもある「死者を悼む」ために靖国に参拝しようとするならば、きちんとかつての帝国日本とは違うことを証明しなければいけないんですよ。もちろん参拝自体は正当な権利であるものの、しかし同時にまた、その説明責任は私たちの過去の行いから生じる義務でもあります。
問題なのは「自分がどう考えているか」ではなくて「他者からどう見られているか」という点なのです。幾ら内向きに「過ちは繰り返しませんから」と言ったって、解る人は解ってくれるさと開き直ったって、結局それは自己満足でしかない。
まぁこうしたアメリカの孤立主義とはまた違った、鎖国大好きな日本の外交センスのなさこそが、戦前から現代まで続く日本という国家が日本らしい理由であるといっては悲しくなるほど同意するしかないんですけど。


靖国参拝の問題って結局そういう所にあると思うんですよね。少なくとも、誤解を生みかねない行為、というのには同意するしかない。だからこそアメリカも「失望」という形で懸念を表明するのです。単純に軍国主義の復活だのなんだのという理由ではなく、再び日本が「アジアとの距離間」というあまりにも重大なそれを動かそうとしているのではないか、という懸念から。
だってかつてそれをめぐってこそ、私たちは戦争までしたのだから。
そのことを知ってか知らずか、安倍さんの参拝批判をただ単純に近隣諸国=中韓との関係悪化として見るのは正直片手落ちだよなぁと。一方で、何故死者への祈りが邪魔されなければいけないのだ、という反発もまたズレていますよね。本当に解決しなければいけないのは、結果論として私たち日本人自身の不作為から『靖国神社参拝』にそのような副次的な意味を、過剰に付与されているという現実であるのです。
行けば戦争を反省していないことになり、行かなければ戦争を反省したことになる。
――んなアホな。
ただただひたすら参拝しなければいい、というのは確かに一つの解決策ではあるのでしょう。永遠に先送りを続けて、時間の流れによって全てを有耶無耶にする。素晴らしき日本的伝統に沿った思考方法。ただそれって結局のところ、これまでがそうだったように、やっぱり根本的な解決には何もなっていないんですよね。




日米関係の根底にあるもの。別に自慢にもなりませんが、世界でも最も重要な二国間関係の一つである日米関係を定義する、日本の東アジアにおける立ち位置。それをあの危うい東京裁判の是非に丸投げしているのは、やっぱり誠実なやり方ではないと個人的には思うんですよね。
日米関係を、戦争か同盟か、どちらかに決定づける程度には重要な事柄。


みなさんはいかがお考えでしょうか?