自殺禁止とジハードの補完関係

正反対の手段から目指される、同一の目的。


CNN.co.jp : イスラム教徒の火星行き禁止、「自殺行為」 UAEが宗教令 - (1/2)
善きイスラムには旅をさせろ - maukitiの日記
昨日の日記でネタにしたイスラム教徒の火星行き禁止令について。自殺禁止なのにジハード(笑)と仰る方も少なくありませんけども、むしろ日常における自殺を強く禁止しているからこそ、非日常における「全てを擲つジハード」により深い殉教性を付与することに成功しているわけですよね。

しかしGAIAEは、火星旅行は自殺に等しいとの見解を発表し、「火星に生命が存在しないのであれば、火星に行ったまま戻って来ない旅は容認できない。生き延びるよりも死ぬ確率の方が高い」とする声明を出した。イスラム教では信者が自ら命を絶つことを禁じている。

CNN.co.jp : イスラム教徒の火星行き禁止、「自殺行為」 UAEが宗教令 - (1/2)

まぁこの辺は考えてみれば当たり前の話でもあります。神から与えられし生命や財産などを軽視していては、その「いざ」という時の代償としても安いものになってしまう。ただ、もちろんだからといってイスラムがジハードの為に普段からその犠牲とする生命を重視しているなんてことを言いたいわけでもないです。
――重要なのは、そもそもイスラムの教えというのが、しばしば生活や日常に密着した宗教だと言われているように、彼らの信仰とはそもそもそうした個人の生命財産や社会規律を保護し平和と安寧の下に生きていくことこそを目的としているという点にあるんですよ。宗教実践と日々の暮らしは同一線上にある。信仰を守っていればこそ、それは達成されるのだと。
故に、イスラムでは自殺は(それこそキリスト教なんかと同様かそれ以上に)当然禁止されるし、社会の平和と安寧を保障する重要な信仰を守るためであれば、逆説的にそれほど重要視される生命財産を犠牲にするというジハードもまた許される。


(自殺禁止などの)善き生活を実現するための信仰、故にその信仰を守る為であればと、ジハードや殉教に意味が与えられる。その意味で、この両者って矛盾というよりはお互いが存在することで価値を高めあう補完関係にあるのだろうなぁと。
端から見てこの辺りの理屈としてはまったく理解できないわけではありませんけども、まぁぶっちゃけ難儀な人たちだなぁとは少し思ってしまいますよね。