不寛容さの度合いというよりは、『機会』と『射程距離』の増加の帰結

まるで成長していない私たち。


人はどのような行為を「迷惑」と感じるのか 『迷惑行為はなぜなくならないのか?』 北折充隆氏インタビュー WEDGE Infinity(ウェッジ)
を読んでの適当な感想。

彼らの行動に対して、ネット上で当たり前のようにつるし上げたり叩いたりするのは、歪んだ正義感で錦の御旗を掲げているようなものではないかと。社会自体が不寛容になってきていて、ネット上で正義感を武器に見ず知らずの人を叩くのはすごく怖いことだと思いますね。

人はどのような行為を「迷惑」と感じるのか 『迷惑行為はなぜなくならないのか?』 北折充隆氏インタビュー WEDGE Infinity(ウェッジ)

確かに現代に生きる私たちはその正義を錦の御旗に「石を投げる」ことが多い。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」なんて、私たちはそれこそあの2000年前の時代からイエス様に窘められるまでは石を投げ続けてきたわけで。私たちがそんなメタ規範を押し付けようとするのは、社会的動物としてのある種の本能とすらいっていい。その私刑=リンチという意味では、まぁ別に現代人たちが殊更に『不寛容』であるとはとても言えないんじゃないのかなぁと。
――ただ、そこにあるのは単純に不寛容さの度合いというだけでなくて、『機会』と『射程距離の増加』でしかないと思うんですよね。
現代IT革命後の世界に生きる私たちはそれこそ世界中のバカな行動を知ることができるようになった以上機会は途方もなく増えたし、同時に「射程距離の無限大の増加=事実上の匿名化」というのはつまり愚かな人びとに対してよりカジュアルに石を投げる=口撃することさえ可能になった。


「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」
こうした構造下でかつてと同じように直接面と向かっているわけでもないのに、こんな説教をされてもまぁ通じないのは当然の帰結ではないでしょうか。社会がより不寛容になったというよりは、より試される機会が増え、より気軽にそれが行使できるようになってしまっただけ。まぁそれが幸福なことなのか、不幸なことなのかは解りませんけど。


みなさんはいかがお考えでしょうか?