道徳的腐敗と社会的善のトレードオフ

あちらを立てればこちらが立たない、ので考えるのをやめよう。


なぜ市民は女児殺害事件容疑者逮捕について考えなければいけないのか?: 極東ブログ
大変よくわかるお話。
「冤罪ヨクナイ!」の先にあるもの - maukitiの日記
まぁ以前書いたお話にかなり近い構図ではあるかなぁと。凶悪事件を恐れ憎むのと、冤罪事件を恐れ不正義に怒る心理というのは、それぞれ現代社会生活を営む私たちが否定しようのない自然の感情であります。

  • 冤罪事件をなくすために多少怪しい容疑者も見逃すべきか?
  • 凶悪事件をなくすために多少怪しい容疑者も逮捕するべきか?

でもその解決を両立するのは、当たり前のお話として、不可能なんですよね。もちろん事後の回復手段等によってフォローすることだってできるものの、しかし究極的な基本構造としては、どちらか一方を追求しようとすれば、もう一方は絶対に失われる。


もし仮に、冤罪事件を一度も起こしたことがない、というのであればそれは別に制度の完璧さではなくて、怪しい容疑者は全て見逃してきた、ことの証明でしかない。


結局の所、凶悪事件とまったく同じく、冤罪を「完全に」無くすことは私たち人間が人間である以上不可能なんですよ。もしそれをやろうとすれば、刑事司法制度を完全に無くすしかない。あるいは凶悪事件を完全になくすには、先手を打って全員をはじめから投獄しておくしかない。
――でもそんなバカげたことを言ったらまず間違いなくほとんど誰もが「極論だ」と反発するでしょう。
である以上これは、冤罪とそれに繋がりかねない捜査手法をどこまで許すか、という問題であるのです。それは単純に冤罪事件と凶悪事件のどちらに恐怖感を覚えるかという問題であると同時に、警察組織への信頼感の問題でもあります。

 さきのジレンマに直面し、ジレンマを引き受けることを放棄しているからではないだろうか?
 別の言い方をすれば、こういう心理ではないだろうか。

凶悪犯人は逮捕してほしいが、そのために冤罪事件を導く捜査方法は是認せざるを得ないにも拘わらず、それを是認するかのような意見を述べると、自分が正しくないように思えるというのは嫌だな。黙っていよう。いっそ、犯人であるか犯人ではないかという主体的な印象をもつのも避けてしまおう。

なぜ市民は女児殺害事件容疑者逮捕について考えなければいけないのか?: 極東ブログ

凶悪事件は逮捕してほしい、そして冤罪もやめてほしい。で、その実際の対応についてどうするのかというと途端に沈黙する。まぁ都合の悪い醜悪なモノには触れたくない、というのもある種人間社会に普遍的なお話ではありますけど。
ザ・思考停止。
もちろん冤罪事件について、真面目に研究している人もいっぱいいらっしゃるでしょう。でも、それが日本において多数派だなんて絶対に言えない。しばしば日本の刑事司法制度が中世レベルだと批判や自虐されたりもするわけですが、それって単純に彼ら当局側の改革意識の欠如や保守主義だけが原因なのではなくて、むしろ社会の構成員たる私たちのこの思考停止状態こそがその現状を追認してきたわけですよね。まぁその点では日本人のそんな市民意識の欠如を笑う人たちには少し同意してしまうところではあるんですが。


重要なのは、別に日本の(中世レベルとされる)刑事司法制度そのものではないのです。ほんとうに社会の構成員たる市民がその基準を望んでいるのであれば、それでもいい。
――凶悪事件を見逃すことも、かといって冤罪を許すことも、それ自体は「悪い」ことであり議論の余地はほぼない。故に重要なのはいつだってその『程度』と『割合』なのです。
女児殺害、冤罪、それは比較して「どのくらい」悪いことなのか?
法治主義及び政治を現実に運用するにあたって、重要なのは道徳そのものではない。それだけじゃ子供の道徳教育レベルであります。大人である私たちが考えなければいけないのは、道徳的ジレンマをはらむ問題を前提として、如何にして制度を運用するかが問題なのです。それはやっぱりどこの社会でも完全に一律というわけではなくて、それぞれにそれぞれの評価基準があるのだと思います。
もしきちんと考えた上で、現在の日本の司法制度のようになっているのであれば敢えてそれを笑う理由はないと思うし、もし逆になにも考えないまま温存されてきたのであれば、警察や検察ではなく、それこそ現状を追認してきた私たち自身を笑うべきなのでしょう。


凶悪事件や冤罪への恐怖感のトレードオフと、そして警察への信頼感。そこに絶対の正解なんてないからこそ、私たちは不快感に耐えながらも妥協し選択しなければならない。
みなさんはいかがお考えでしょうか?