「何かを信じる理由」の正当化の範囲はどれくらい?

人に迷惑を掛けさえしなければ、どこまでやっても許されるのか?


リチャード・ドーキンス:信徒が「良い人」であることが原理主義者を在らしめる - 今日の覚書、集めてみました
まぁ全面的に同意するかはともかくとして、その論理展開はそれなりには理解できるお話かなぁと。穏健派たちのそれを認めるしかない故に、結果として原理主義者たちのそれも含めざるを得なくなっている構図。でも『自由』の為には多少の毒は受け入れざるを得ないお話でもあるわけで。

"Because the moderates are so nice we all are brought up with the idea that there's something good about religion faith. That there's something good about bringing children up to have a faith.

「穏健派は余りにも良い人なので、信仰は何か良いことみたいだという考えを持って育つ。信仰を持つように子供を育てることは何となく良いことなのだ」

"Which means to believe something without evidence and without the need for justifying it.

「それはつまり、証拠も正当化の必要もなく、何かを信じるということだ」

"They're entitled simply to say 'oh that's my faith, I believe it, you're not allowed to question it and you're not allowed to ask me why I hold it'.

「彼らは『ああ、それが私の信仰なの、信じてるの、反論は認めない、なんで信仰しているのかという質問は認めない』と言う資格を与えられている」

"Once you teach people that that's a legitimate reason for believing something then you as it were give a licence to the extremists who say 'my belief is that I'm supposed to be a suicide bomber or I'm supposed to blow up buildings – it's my faith and you can't question that."

「それが何かを信じる正当な理由だ、と一度教え込んでしまえば、それは『私は自爆犯か建物を爆破するはずだというのが私の信仰…それは私の信仰なのだから質問は受け付けない』と言う過激派にお墨付きを与えるようなものだ」

リチャード・ドーキンス:信徒が「良い人」であることが原理主義者を在らしめる - 今日の覚書、集めてみました

この辺は、現地イスラム世界よりも過激主義に染まりやすい先進国社会における『根なし草』な移民二世の若者たち、という構図の説明の一端でもあるのだろうなぁと。本来ならば「それは教義的に間違っている」と抑制する(ミクロな地域社会における)宗教指導者たちの役割までもが、皮肉にもそんな先進国にあるリベラルな『自由』尊重によって抑制されてしまっているというお話。


ともあれ、他に書くことがあるとすれば、以前の日記でも書いた多文化主義(とその苦境)のお話かなぁと。
「文化的自由の為の多様性を維持する為に文化的自由を制限する」人びと - maukitiの日記
多文化主義の失敗について。
リンク先での言葉を借りれば「ああ、それが私の文化なの、伝統であり生き方なの、反論は認めない、なんでそうしているのかという質問は認めない」というやり方をあまりにも野放図に許容し続けた結果が、それぞれがそれぞれの蛸壷に入り込み他者と隔絶することで社会としての一体性を維持できなくなりつつあるのが、まさに現状のヨーロッパなどで見られる多文化主義の失敗であるわけですよね。
ところが、そうした他者の信仰や文化に「どこまで」口を出すことが許されているのか? というコンセンサスは現代の先進民主主義社会にはほとんど存在しないわけです。
――(伝統的)文化や宗教は、無条件で保護されるものなのか?
――もし仮にそうでないとすれば、その判断基準は一体どこに置かれ、そもそも誰がどのようにして決めるべきなのか? 民主的に多数派が決めちゃっていいのか?


この問題が根本的にメンドくさいことになっているのは、いわゆる『PC=政治的正しさ』とも関連するところがあって、そもそもその信仰や文化に疑義を呈すること自体さえ『政治的に正しくない』とされてしまう点にあるわけで。そのレッテルを貼られることは事実上、リベラルな社会であればあるほど致命傷になってしまって、実際にどうかはともかく、効果的な政治的攻撃手段となってしまってもいて議論の俎上に上げることすら難しい。だから賢明な人間であればあるほど、そんな危険から距離を取ろうとする。政治家としてはもう議論のネタにする時点で迂闊だ、というのは概ね正しい認識でしょう。
しかし一方で、そこに踏み込まない限り、この問題は決して解決しないだろうとも思うんですよね。
「何かを信じる理由」の正しさの範囲について。
リベラルな現代社会の基本原則の一つには「他者に迷惑を掛けなければいい」というものがありますけども、ならば迷惑を掛けなければ何をしてもいいのか、と言われるとそこであっさりと全面的に頷ける人もやっぱり少数派でしょう。しかし、だからといって、その判断基準を明確化することもできない私たち。
だってそれについて語ろうとすることは『政治的正しさ』を綱渡りする必要がどうしてもあるから。
欧州で再燃の兆しをみせる反ユダヤ主義――世界各国の報道を見る / 平井和也 / 翻訳者 | SYNODOS -シノドス-
この辺はやっぱりイスラムと言うだけでなくやっぱりユダヤも同じ構図にあって、その曖昧さへのカウンターとして溢れ出ているのが現状の欧州のウケイカの要因の一つではないかなぁと。まぁ私たち日本も構図としては全然他人事じゃないんですけど。


みなさんはいかがお考えでしょうか?