「戦争忌避という良心が、また新たな戦争を呼ぶ」お馴染みの悲劇

いいないいなにんげんっていいな。




仏人質の斬首映像、アルジェリアの過激派が公開 写真3枚 国際ニュース:AFPBB News
ということで次はフランスだそうで。しかしシリアやイラクから遠く離れたアルジェリアで拉致されて、こうした見せしめに処刑されるというのは、ほんともう洒落にならないお話ではありますよね。ハイキングのはずが首切りとかとばっちり感ハンパない。『イスラム国』がグローバルな問題だというのが大変よくわかるお話であります。インドネシアなど東南アジアでも広がっていることを考えると、私たち日本人も決して無関心ではいられないお話だよなぁと。
米国のシリア空爆への第一報と論調 - 中東・イスラーム学の風姿花伝
ともあれ、この辺は池内先生が指摘していた通りの論理展開なのでしょうね。つまり「西欧国家は弱い故に、犠牲が積み重なれば簡単に妥協するだろう」なんて。

なんで「イスラーム国」は英米人を残酷に殺害する映像を流したりするのか?米国の攻撃で壊滅的な打撃を受けると分かっていないのか?それほど狂信的なのか?といった質問は私も随所で受けるが、答え方はクラウトハマーのものと似ている。

惨殺映像で米国を挑発すれば、短期的には米国の攻撃を受けるが、長期的には、同様のことを繰り返していれば米国人は嫌になって帰っていくと読んでいるのだろうと思われる。短期的にも、米国人を支配下に置いてその無力さを見せつけ、自らの強さを印象づければ、アラブ世界やイスラーム世界で一定の支持を得られると考えているだろう。実際、イラク戦争を広い意味で、2003年から2004年から08年ぐらいまでのテロ・武装蜂起を経て2011年の米軍撤退までという長いスパンでとらえれば、そのような見方には説得力がある。毎回毎回テロをやられて、嫌になって米国は引いて行った、だから同じことをやれば同じ結果になる、という見方は、それなりに合理的であり、「狂信者の非合理的な認識に基づく暴走」とは言い切れない。その価値観や行動様式には共感できないが、現にそのような見方を持つ人が中東やイスラーム世界には多いということについては、私も自らの観察から、同意できる。

Because they’re sure we will lose. Not immediately and not militarily. They know we always win the battles but they are convinced that, as war drags on, we lose heart and go home.

米国のリベラル派の理念的な世界観では、こういった論理や道筋がうまく理解できないのではないかと思う。

米国のシリア空爆への第一報と論調 - 中東・イスラーム学の風姿花伝

ただまぁこうしたお話自体については『イスラム国』が特別にバカで斬新な思い込みをしているかというとやっぱりそうではありませんよね。先日の日記でも少し書いた『ミロシェビッチ流攻撃術』もこうした論理の一種であるわけで。
数々のならず者な独裁者たちが自信満々で述べてきた「我々は多少の犠牲があっても耐えられる、しかしお前らはそうではないだろう」「彼らがすぐに動けないのは弱さの表れである」「裕福である彼らは退廃的なのだ」という言葉は、少なくとも一面においては真実でもあるでしょう。その多くならず者たちが最終的には目論見が外れ見事に痛い目にあってきたものの、しかしとても魅力的な考え方でもある。
その極北にいるのがあの第二次大戦前のヒトラーだったわけですよね。「イギリスは弱いから戦争なんてできないだろう」なんて。
古今東西ならず者たちが共通して持ってしまう甘い楽観論。あいつらは覚悟が足りず弱い、だから少し脅せば見逃すだろう。「平和を愛する」と公言することは、同時にそうした人たちから「甘い」と見なされることでもある。


故に法秩序や上位権限者の不在などのパワーの差こそが関係性を決める原始的な世界であればあればあるほど「弱さ」を見せることは安全保障上の大失態と見られるわけです。それは(潜在的な)敵を増長させ、本来起きなかったはずの危機を誘因してしまうから。実際に自分が弱いかどうかではなく、相手に弱いと見られてしまってはいけない。自らを強そうに見せることは効果的な危機回避の一手段である。
故に軍事力というパワーは、同時に抑止力でもある。
こうした古臭い『面子』『建前』という安全保障の概念は、まぁ確かに粗暴であり自然状態であり非文明的ではあります。実際に、少なくとも先進国に住む多くの私たちは幸運にもそれをほとんど意識しないまま生きている。ただここで重要なのは、それは見えなくなった、あるいは見えにくいというだけで、絶対にそれが無くなったわけではないという点こそ重要なのでしょう。
21世紀において尚も剥き出しのパワーが支配的なマクロな国際関係では、やっぱり常識の一つでもある。そしてそれはミクロな人間関係でもこうした「弱み」を見せることで事態が悪化するという事例は無数にあるわけで。リーダーシップの問題であったり、あるいはイジメの問題だってこうした要素があることは否定できませんよね*1


これは『戦争忌避』という間違いなくとても素晴らしき平和観を持った良心的な私たちが、同時に抱え続けなければならない致命的な矛盾ではあるのでしょう。もちろんだからといって、平和を愛する心は害悪であると言いたいわけでは絶対にありません。
――ただ同時に決して忘れてはいけないのは、まさに歴史が幾度となく証明しているように、その「甘さ」につけ込む『ならず者』も絶対になくならない、ということであります。それを「弱さ」と見て、そこから利益を得ようとする人びと。合理的といえば、悲しいことに少なくとも一面ではその通りだと言うしかない。
平和を愛していればこそ、危機管理としてその時に一体どう振る舞うのか、については考えておくべきだよなぁと。緊急事態に陥ってから議論し始めたって冷静な議論ができるわけないし、もしかしたら極端から極端に振れてしまうかもしれない。だからこそ平時から考えておくべきなんですよ。
私たち現代日本人の多くが持つ『平和観』につけ込むならず者が現れた時、一体どう振る舞うべきなのか? 



私たちは平和を愛すればこそ、平和を危機にも陥れることになる。
いやぁにんげんせかいってとてもすばらしいよね。


みなさんはいかがお考えでしょうか?

*1:だからこそそんな剥き出しな自然状態の典型例の一つである『教室』を管理するだけの権限を備えた人間=教師による管制が必要であり、そこで教師が「弱い」と見られることは致命的だとずっと言っているわけですけども、それはまた別のお話。