「価格」をつけることの意味

原理的な人たちとの間にある越えられない壁


法制度・規制:2030年の発電コストが決まる、原子力は10.1円、太陽光は12.7円 (1/2) - スマートジャパン
うーん、まぁ、そうね。(原子力のそれを筆頭に)数字の試算に文句があるのは、ある意味当然の疑問であって、それはそれでとっても利に適ったお話ではあります。もしそれが安ければ使えばいいし、あるいは本当は高かったら使うのを抑制していけばいい。まぁ原発にしろ火力にしろ処理費用の問題をきちんと見通すことは難しいし、サンクコストの問題もあって中々難しい所ではあるんでしょうけど。個人的にはゴアなんかさんの言う通り*1新規はともかく一度建ててしまった以上、使えるものは使った方がマシだとは思いますけど。


ともあれ、こうした試算を出すこと自体にはやっぱり意味があるわけで。原発を推進する為だけではなくて停止させる為にもまた、こうしたコスト議論は必要なのだと思います。
価格をつけるということの意味とは――ひどい言い方をすれば――汚染も人命すらも絶対的価値を置かないという行為であるわけですよ。相対的価値への変化。
その定義について、ルイス・ハイド先生なんかは著書の中で次のように述べています。

『絶対的価値(worth)』とは、自分が大切にしていて、値段がつけられないものに、もともと備わっているモノだ。これに対して『相対的価値(value)』とは、あるものをほかのものと比較することによって導き出すものだ。

そこに余地のない絶対的・原理的価値があるからダメだ、というのじゃ議論が進まない。故にこうした相対的価値=価格化というのには、まず議論の大前提として必要となるわけで。しばしば不毛な議論となる原発安全性と他の事例(自動車等の危険性)との比較なんかを見ればよく解りますよね。もし、そこに絶対的な値段のつけられないような価値を設定してしまっては、その前提はこれまで人類社会が積み上げてきた基本的な大前提そのものを覆してしまうことになるから。
巧妙に隠されていたり、暗黙の了解だったりするけれども、私たちの社会は命・健康の値段を冷酷に測り続けている。
――私たちはこれまでそうしてやってきたし、これからもそうするべきでしょう。身も蓋もなくリソースの問題から、世の中にはどう転んでも正解のない選択肢というのは確かにあって、しかしその上で、私たちは嫌な思いをしながらも選択しなければならない。
まぁこんなこと普通に社会生活を営んでいれば多かれ少なかれ直面する事態ではありますよね。私たちは、手持ちリソースと健康生命を秤に掛けることが、悲しいことに、ある。



しかしそうは言っても福島の現状を見れば、そうやって割り切るのはやっぱり心理的なハードルは高いでしょう。客観的なフリをして勝手なことを言うことはできるものの、それはやっぱりどこか他人事だと切り捨てているからこそ、そんな冷酷な決断が無責任にできるという面は確かにある。
だったら嫌な思いをするくらいなら、決断は、他の誰かに任せてしまおう。だって決断に積極的にかかわりさえしなければ自分の心の平穏は保てるから。どちらを選んでもストレスならば、無関心でいた方がいい。重要問題における『無関心層』というのは、ただ興味がない、ただ知識がない、という理由だけではなくどちらを選んでも完璧な正解がなく何れもあるデメリットを選択することの心理的負担が大きいからだったりもするんですよね。
現代日本版『ドン・キホーテ』 - maukitiの日記
先日の『ドローンの騎士』である彼は、そんな風にしばしば無関心でいることを合理的に選択する私たちを必死の努力で振り向かせようとしたものの、しかしその様子は悲喜劇にしかならなかった。


合理的無関心の時代が再び。