「出来ない」ことと、「敢えてやらない」ことを混同している

合理的な判断の上で、無知で無関心であろうとする、日本の若者たち。


「日本の若者は、なぜ暴動を起こさないのですか?」「平和」な日本社会の落とし穴(寺田 悠馬) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
ということで炎上気味に盛り上がっていた「一万円払って九千円のお釣り貰うのつらいわー、俺が金持っているってバレてつらいわー」な人のありがたいお話。

日本を見ると、少子高齢化、雇用不足、財政悪化など構造的な課題が深刻化するなか、創成期のEU同様、そこに住む人々の利害関係が一致しにくくなっている。前述の世代間の問題のみならず、男女間、地域間、産業間などに発生した溝は、今後深まるばかりだろう。
それにもかかわらず、社会の溝を埋めて共生を探るために欠かせない意見のぶつかり合いが、日本ではなかなか表面化することはない。産業革新機構による巨額の支援策が、将来を担う世代の利を損ねることにならないか、広く議論されないのが実情である。その結果、日本は波立たない「平和」な社会であるが、それは激論が行われた末に、人々の洗練された意見がコンセンサスに反映されて生まれた強靭な「平和」ではない。

[http://gendai.ismedia.jp/articles/-/36538:title=「日本の若者は、なぜ暴動を起こさないのですか?」 「平和」な日本社会の落とし穴  | 寺田悠馬「楽園を出よう!」 | 現代ビジネス [講談社]]

まぁ色々と叩かれているお話ではありますが、おそらく言いたいであろう、本論としてはそれなりに頷ける部分はあるんですよね。
「日本では何故議論が起きないのか?」
「日本人は激しい議論になるような対話を避けているからだ!」
そうした意見にも少なからず頷けるところはあるんですが、ただ、だからといってマニュアル一辺倒ではない「人間味溢れた」対話や触れあいを進めればいいのだというのはなんだかよく解らない帰結だよなぁと。別にお釣りの際に札を数えるのをやめれば対話=議論が進むようになるとは、僕にはとても思えません。


この著者は、マニュアル通りに動く日本人(特に若者たち)は目の前の相手の気持ちをまったく考えない「相手の違和感を察知する感受性を、彼らはもはや持ち合わせていない」と断罪し、それを日本に議論が欠けていることに対する根本的原因の一つとして述べておりますけども、しかし僕としては微妙に違うと思うんですよね。
――むしろ彼ら=私たちは、そんなこととっくに解っていて、その上でそう振る舞っているんですよ。
ただ単にその能力が欠けているわけではなくて、その能力を発揮することを「敢えて」放棄しているのです。だってそっちの方が楽だから。相手の違和感に気づいていないわけではなくて、敢えて気づかないフリをしている。だってそれが伝統的な日本の風景である「空気を読む」ということだから。サイレントマジョリティの名の下に、私たちは解っていてマニュアルに徹しているのです。こんなこと日本におけるアルバイト――特に個人経営ではない大企業を母体とする職場で働いて居れば、ごく当たり前に到達する結論でありますよね。
それをして「日本は対話に臆病だ!」と言うのであれば、確かにその通りなのでしょう。(少なくとも多数派の)私たちはその方がベストではないにしろ、モアベターだと考えている。
経験に裏打ちされた「合理的な無関心」の時代へ - maukitiの日記
推進派ではなく無関心層にトドメを刺される反原発 - maukitiの日記
最近の日記でも書きましたけど、多くの若者は単純に他人や社会的問題に『無知』で『無関心』そのものなのではなくて、『合理的無知』であり『合理的無関心』なんですよ。ただ盲目にそれに従っているのではなくて、そのメリットデメリットを勘案した上で、ひたすらマニュアルに徹した方が都合がいいと判断している。
もちろん最終的な結果として出力されている表面上の事実そのものに違いはありません。ただそうした若者たちにある「どうせ何も変わらないから」という絶望と紙一重な深い諦観を無視した形で「もっと対話をトゥギャザーしようぜ!」と無邪気に叫ぶのは、現代日本に関する評論としては正直微妙だというしかありません。
――でもまぁ日本にあまり居ないのならばそれも仕方ないよね。
まぁもちろん彼の意見がより正解に近く、僕の方が突拍子もないことを言っているのかもしれませんが。



よく海外の話題ではかなり真っ当なことを書かれる外国人(記者)の方も、あまり縁のないだろう日本関連のことだと途端に突拍子のないことを書くことは多々あるので、今回も結局そういう構図なのかなぁと思います。よく解っていないガイジンの人に何だか意味不明な日本人論を展開されて、強く反発されてしまう現地の私たち、な構図。炎上したのはそうした要素が大きいのだと思います。
もちろん、そうした外国の人だからこそ新鮮な視点で物事を見ることができるという利点もあるわけですが、しかし今回はどう見てもそんなこともなかったわけで。よりによってその外部から見た「新鮮な視点」をアピールしようとしたのが、

大学時代をニューヨークで過ごして帰国した頃、釣り銭を大声で数え上げるこの慣習に、すっかり困惑した。9千円もの現金を持ち歩いているのを無闇に周囲に言いふらされると、それは「この人を強盗してください」と言われているように思えてしまい、気が気ではなかったのだ。

[http://gendai.ismedia.jp/articles/-/36538:title=「日本の若者は、なぜ暴動を起こさないのですか?」 「平和」な日本社会の落とし穴  | 寺田悠馬「楽園を出よう!」 | 現代ビジネス [講談社]]

というお話だったのは、まぁなんというか、やっぱり愉快なお話だと言うしかありません。
「日本社会で議論が足りないのは、相手の違和感を察知する感受性を持ち合わせていないからだ!」なんて。それこそ単純に問題解決とする為には実はそっちの方が簡単ではあったでしょう。それならそれで、人々を啓蒙し目覚めさせれば解決できるのだから。
ところがどっこい、現代日本における問題はもっとめんどくさくて、私たちは他人の違和感を考えた上でそれでも敢えて対話をしようとしないことを選択している。私たちは合理的に考えた上で、無知で無関心を振る舞った方が、メリットが大きいと考えている。
――正直こちらの方がずっと根が深い構造ですよね。





まぁこうしたことを解った上で、そんなマニュアルを求める人と、ウィットに富んだ対話を楽しみたい人、どちらにでも対応できるようにもっと相手の機微に合わせた応対をするべきだ、と言いたいのかもしれません。そんな無茶なことをただのアルバイトに要求するブラック丸だしな人も昨今では少なくないので、この著者のことを良く知りませんのでもしかしたらそちら側のお人だったりしたらごめんなさいするしかありません。そうだね、そんな会話を時給数百円のバイトがやってくれたらいいよね。
それはそれでやっぱり心底愉快なお話ですけど。