国境線は人類の妄想か、あるいは叡智か

「この星に、ボーダーなんてない」と貴方は言うけれど、



境界はハリボテのトンネル、国境なんてこんなもの 旅の形、国の形(キプロス・ニコシア) | JBpress(日本ビジネスプレス)
うーん、まぁ、そうね。

 だいたいあのハリボテのトンネルは本当に国境と言っていいのだろうか? コーナーポストを立てて、人を配置して、ハイ、ここからは内側、ここからは外側。境界線ってそんな適当なものなのか?

 でもきっとそうなのだ、国境なんてそもそもこうやって恣意的にコーナーポストを立てて作られたものであり、そこに立つ人が厳めしく、まじめな顔をしているからみんなだんだんそんなつもりになって、まるで境界線があるような気分になってくる。

境界はハリボテのトンネル、国境なんてこんなもの 旅の形、国の形(キプロス・ニコシア) | JBpress(日本ビジネスプレス)

キプロス問題を考える上で愉快なのは、1974年のトルコ介入云々以前にキプロス独立の統一政府からしかし独立わずか三年後には彼らはその中で主導権争いによる民族紛争を起こし、かくして分裂した状態で安定している点なんですよね。
紛争開始から50年経っても尚ヨーロッパを中心にした国際社会()な人たちには、キプロス再統一論があったりするとは思いますけども、そもそも論を言えば『統一キプロス』なんて夢は既に生まれて三年で死んだのにね。その夢を諦めない人たちによって、キプロスの現状は、曖昧なままで固定化されている。こんなの現地の人たちにとってはひたすら不幸でしかないよねぇと。さっさと現状を認めてしまえばいいのに。土地への愛着ってそう簡単に諦められないのが人類の悲劇でもありますが。


実際もし「トルコ介入」という事実が無ければ分離独立路線でもっと簡単に解決していたんじゃないかと思います。セルビアやクリミアなんかともリンクしているように、やっぱり独立問題って外部の別国家の思惑が絡むと間接的侵略・内政干渉とひたすらめんどくさいモノになってしまうんですけど。


ともあれ、このキプロスなんか典型例だと思うんですよね。どうせ一緒に暮らすのは無理なのだから『境界線』を引いて別々の価値観を持つ人たちで「あっち」と「こっち」で暮らした方が諍いが少ないだろう、というのは人間社会のある種の真理じゃないかと。
もちろん上手く話しあって解決できる社会もあるでしょう。しかし、必ずそれだけじゃ無理、あるいは途方もないコストが掛かる社会だって確実に存在しているわけで。それなら初めから無理なく別に別に暮らした方がずっと「楽」ではあるよね。
――どうせ解りあえないのだから別々に暮らそう。
これはマクロな人間社会ではともかく、ミクロな個人生活では誰だってごくごく当たり前にやっている手法でしょう。ノーボーダーなんていう言葉が少し前に流行りましたけど、しかしそれって個人生活で原理的にやっている人なんてほぼ居ないんじゃないかと。ちょっと頭おかしい人はブロックしておきますね。
(場合によっては)境界線はあった方が好都合である、というのは生活の知恵でもある。



多文化主義は人種差別主義者たちの最後の砦 - maukitiの日記
でもこうした主張は、ともすれば先日もネタにした「多文化主義が人種差別主義者の最後の砦」がブーメランとなって返ってくるあたりがめんどくさいお話なのがこの世のPC地獄であります。なまじこんな事公で言ってしまったら文脈無視されてレイシスト認定一直線なのでご了承ご了承。
もちろん解りあってお互いに譲り合えればそれがベストでしょう。でも絶対に譲れない一線で解りあえなかったら、まさにキプロスのように、後は戦うしかなくなってしまうわけで。その「次善の策」からすれば別々に暮らすというのは、人間が生み出した叡智の一つではないかと思います。
そのおかげで私たちは、戦わなくて済むのだから。いやまぁその境界線があるからこそ戦う羽目にもなったりするんですけど。


国境線のような人為的な境界線のバカバカしさ(それ自体は否定できない)だけでなく、それによるメリットを考えないのはちょっと不誠実ではないかと思います。まさにキプロスなんかは統一状態で失敗し、分離し離れて暮らすことで「あっち」の人たちとは他者として振る舞えるようになったわけだし。


みなさんはいかがお考えでしょうか?