私たちは『正直な内心として』他人をどこまで信用できるのか、一方で私たちは『公の態度として』他人をどこまで信用せねばならないのか問題

内心と社会規範の乖離。



不信感と差別感のあいだ - maukitiの日記
前回日記の続き、というか本題。
http://news.infoseek.co.jp/article/20170124jcast20172288759/
一見愉快なことを仰る人たちだよねと笑えるお話ではありますが、でもこれって実は現代社会において非常に重要で、でも死ぬほどセンシティブなので無視されがちだった問題――昨今では色々あって表層に滲み出つつあるモノ――なんじゃないかと思うんですよね。
もちろん熊谷市長の言うことこそが「現代的」には正論であるわけですよ。昨日の日記でも指摘したように『性差』によって態度を変えるというのは差別に他ならないから。犯罪率等によって仮に幾らそれが正論であろうとも。
「(男性より「一般に」女性の方が苦手とされているのだから)オンナの運転するバス・タクシーになんて乗れるか!」
うーん、やっぱ、アウトっぽいね。


共同作業こそ人類進歩の要であり、相互信頼があるからこそ効率的な協力関係を生むができる。文明的な日常生活を送る上で、こうした相互信頼は必要不可欠であります。それは最低限あればいいというものではなくて、むしろあればあるほど取引コストは低下していく。日常生活からより政治経済まで、そこには必ずある種の『信頼』を前提に成り立っているのだから。
小規模な誰もが顔見知りという血族・部族世界から拡大し、それでも私たち人間が見知らぬ隣人他者とも協力していけるように、信仰や共同体そして国家と様々な縁と関係を深め帰属意識を生み他者への信頼感を担保してきた。「郷に入っては郷に従え」というのは何も片務的な義務じゃないんですよ。それをすることで、やってきた客は現地からの最低限の信頼を得ることができるように、自分ではなく周りを安心させる為にこそ必要なのです。
偏狭な差別感情がこうした相互信頼の醸成を阻害するのは、おそらく間違いないでしょう。
「男性(女性)は信頼できないので関わらないでくれ」と言われた・扱われた方がどう思うか、なんて想像するのは容易なはずです。そんな功利主義的意味合いからしても、ミクロの感情を我慢してマクロの差別を否定するのは確かに理に適っている、のだと個人的には思っています。




ただ、それでも前回日記でエクスキューズしたように、彼女たちが主張しているようにそれが『感情』なのだ、というのには一理あるわけですよ。私たちは幾らPCや公の良識や建前があろうとも、母と自分を分離し自我が目覚めた瞬間から、見知らぬ他者に対して警戒し恐怖を抱くようになっている。
上記のように私たちが社会的動物として連綿と繋いできた信頼感醸成の努力は、逆説的に何も無ければ見知らぬ他人を信頼するのが難しい、ということの逆証明でもある。
誰だって見知らぬ他人をすぐに信用するのは難しい。そこに共通の話題(関係性)が多ければ多いほど、その道程は容易であるでしょう。逆に少なければ少ないほど信用するのにハードルは高くなる。
前回日記コメントで頂いたmakiさんが言うところの他者への信頼感を判定する『信頼マップ』上において、私たちは黒か白かという二元論で区別しているのではなく、むしろ無限に広がるグラデーションで評価しているわけですよ。金銭の貸し借り、肉体的接触、秘密の共有、隣人付き合い、そこに一様の基準があるはずもない。


ということはつまり、社会的要請から「〇〇な人たちを信用するべきだ」というラインを引かれたとき、必ずそこで少なくない誰かたちが大小の我慢を強制され内心の不満を抱くことになる。これは決して避けられない構図でしょう。
「女児の着替えさせないで!」という愉快な人たちが示しているのはその愚かさでも差別性でもなくて、むしろ死ぬほど正直な点なんですよ。ただただ何も考えていないのか、それとも本気で自身の正当性を信じている確信犯なのか。
まず間違いなく現代人たちは誰だって、社会的要請からくる「相手を信頼しなければならないライン」に多かれ少なかれ不満を抱いている。宗教人種国籍前科職業学歴年齢性別そして顔の美醜に至るまで。「ただしイケメンに限る」なんてジョークも、まさに悪意のない典型例でもあるでしょう。
一瞬心のどこかでコイツ怪しいな、と思っても一般的な大人であればそれを公に出すことはしない。だってそれは社会から様々な形で「同じ共同体の一員として信頼すべきだ」と要請されているから。

「外からの多様性」を認識しながら、しかし「内なる多様性」を認識しようとしない人たち - maukitiの日記
それが我慢できる範囲内であれば良かったでしょう。もしくは最も多数主流派の意見であったり、あるいはその圧力が強くなければ。ところが、人は誰しも平等という素晴らしくリベラルな考え方をひたすら突き詰めていくと、その押し付けられるラインはいよいよ余裕がなくなっていくことになる。


内心と社会的要請されるラインの乖離について。


貴方はどのような他人を、どんな状況で、どこまで信用できますか?