科学教育にはjkが欠かせない

かなりタイトルオチ。


なぜ科学教育において「哲学」が重要になってくるのか - GIGAZINE
これ有名なフレーム問題っぽいお話だなぁと。

また、科学は客観的であると主張されることもありますが、科学研究を行う人も含めて、私たちはみんな、物事の見かたにバイアス(偏り)を持っています。そしてバイアスこそがクリエイティブな科学研究を生み出すのです。「純粋な客観性」はありえないということを説明するために、Smith氏は生徒たちに対して「予想や仮定をしないで観察を行い、見た物を説明してもらう」という実験を行うそうです。この実験において、生徒たちは仮定なしに自分たちの経験を語ることができないということに気づくとのこと。

なぜ科学教育において「哲学」が重要になってくるのか - GIGAZINE

私たちは観測した事象を、まず自身の経験と知識に当てはめて、大雑把に概観するところから始める。そうした最初の判定ですら自身の『常識』的思考から逃れることはできない。絶えず常識的に考えてしまう私たち。
でもそんな常識的に考える能力こそ、人工知能と私たち人間を分けてきた壁でもある。つまりある種の客観性を捨て、自身のポジションを好きなように定義できるからこそ、考慮すべき可能性と影響そして情報の取捨選択ができる。それが無ければ無限に観測すべき世界が広がっていってしまう。


実際、ダメな事例として上記リンク先で挙げられている事例ではあるものの、

mith准教授は学生が哲学を軽視している様子をよく見かけるとのこと。実際に、科学者の中には「哲学は科学と関係がない」と明言している人もおり、「女性」「ジャマイカの家系」「哲学者」という3つの背景を持つSmith氏は「学位は?」「どこの学校を出たの?」「科学者なんですか?」といった質問を浴びることも多いと言います。また、より哲学者のステレオタイプに近い、白人・男性・ひげ・初老という科学哲学の教授は、科学に対する考え方を疑われることもあるとSmith氏は語っています。

なぜ科学教育において「哲学」が重要になってくるのか - GIGAZINE

しかし、まさにこれこそある種のテンプレな(そして差別的な)『哲学』でもあるよね。最初から「あるだろうモデル」としてテンプレ的外見を思い浮かべている。陳腐ではあるしまったく非科学的ではありますけど、逆説的に彼らは既に『哲学』を持っている。




ならばその正しい『哲学』や『常識』とはな一体なんぞや?
――ということを常に考え、そして漸進させていくのが科学哲学の役割のひとつであるならば、科学者だけでなくむしろ人間な私たち全体にとってあとしばらくは続くだろう「人間がロボットよりも優位であるために」重要な能力なのでしょうねぇ。
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そうでなければ、私たちの存在意義がなくなってしまうことになりかねないから。完全に逆転される可能性もかなり高いものの、しかしそんなシンギュラリティな瞬間までは、あっさり諦めてしまうにはまだ遠い未来でもある。おそらく、しばらくはどうにかこうにかこの自前の小さな脳でやっていくしかないだろうから。
いっそもうさっさと来てくれた方が楽なのにね。
「希望は戦争」――ならぬ「希望は技術的特異点」なんて。


がんばれ人間。