不幸の総和

愛ゆえに人は悲しまねばならぬ。


スポーツは人間を不幸にする? : 地政学を英国で学んだ
面白いお話。両者に勝ち負けのつく、ゼロサムゲームをやる以上避けては通れない道だよね。

幸福感をモニターするアプリを使った300万の反応と、数年分のイギリスのサッカーの試合の場所と時間に関するデータを使って、サセックス大学の経済学者であるピーター・ドルトンとジョージ・マッケロンは、ファンたちがチームが勝った時に感じる幸福感の量は、チームが負けた時に感じる悲壮感の量のたった半分にしかならないと計算している。

スポーツは人間を不幸にする? : 地政学を英国で学んだ

ただ、ここで問題なのは同じ試合結果でも負けた側の不幸の方が強い、という点であるそうで。かくして勝ち負けゲームによって生まれる幸福不幸の世界の総和はマイナスとなる、という悲しいオチ。


この辺は行動経済学でいう所の『現状維持バイアス』なんかが説明していますよね。人間は自分のモノである、という理由で財やサービス・アイデンティティを過大評価する。同じ物を「買う」時と「売る」時では、評価額が二倍以上異なることもあるほどに。
一般に、何故私たちがこうした現状を好み守りの姿勢を進化させてきたのかについて「ひいては既存の家族や友人との関係性・絆を維持するためだ」と言われています。今あるモノに価値を見出すことは、ほとんどそのまま現状の人間関係の維持存続でもある故に。
といってもそれを「バイアス」として呼ぶように、多くの場合で過大評価・過大投資であることも間違いない。まあ本邦に限らず過激すぎる保守な人たちはいっぱいいますけども、彼らは既存社会にある伝統や文化を愛し過ぎているだけなのでしょう。やっぱりそれって不合理な過大評価の産物なんですけども。


しかし幸いなことに私たちの住む社会は「自由な国」でもある。幾らバイアスがかかっていようが、他人に迷惑を掛けないのであれば過大評価も(『愚行』と呼ぶかはさておくとしても)自由の範疇であります。だから昔からの弱いチームだって愛し続けたっていい。それが不幸を呼ぶことが多いと解っていても。何故ならその愛こそが私たち自身の歴史や背景や由来を説明するものでもあるから。自由ってすばらしいなあ*1
かくして過大評価されたチームが負けた時、より大きな悲しみを生むことになる。


愛ゆえに人は苦しまねばならぬ。愛ゆえに人は悲しまねばならぬ。しかしただの人である私たちは、しばしば、苦しみの方が多いと解っていても愛を捨てることはない。
そう易々とこれまで愛(投資)してきたものを捨てられない。サンクコストと割り切れない。であればこそ人間社会の幸福よりも、不幸の総和の方が大きくなってしまう。やっぱり悲しいお話だよね。






ともあれ、ここで社会の不幸の総和について「最適解」を求めるとすれば、つまり少数派を『負け組』に設定したうえで、多数派を『勝ち組』にし勝利感を味合わせる、のは人間社会の運営手法として合理的かも――おっとこれ以上はいけない。


社会の不幸の総和について。
みなさんはいかがお考えでしょうか?

*1:トランプ政権 中国がウイグル族を不当に収容と非難 | NHKニュース「宗教の信仰と文化的な帰属意識を失わせようとしている」