今も昔もメッセンジャーを撃ち殺すのが好きな私たち

バベルの塔なんてのもわざわざ必要なかった。


なぜネットでは小さな諍いが絶えないのか(プレジデントオンライン) - Yahoo!ニュース
うーん、まぁ、そうねえ。

かつてネットは自由で気楽だった。だがいまのネット上には自主的な警備員がたくさんいる。小さなミスも難癖の対象になり、諍いが絶えない。そうしたリスクを嫌い、「オンラインサロン」にこもる人も増えている。連続起業家の家入一真氏は「いまのネットには『不特定多数から特定少数へ』という流れがある」と指摘する――。

なぜネットでは小さな諍いが絶えないのか(プレジデントオンライン) - Yahoo!ニュース

現代のSNSがそれを「加速」させているというのには同意しますけども、別に現代人特有の偏狭さから『特定少数』へ分裂しているのかというと、やっぱりそうではないとは思うんですよね。むしろ新しい情報技術の登場によって、原点に帰ろうとしているのではないのかと。




それこそ文化人類学などの知見からすると「人間はひたすら孤立主義を好む」というのが常態ですらありますよね。たとえばマット・リドレーの『繁栄』という本の中で、物々交換から始まった人間の経済の進歩は、なぜ何千年も渡って進歩が停滞していたのか? について論考している箇所があります*1

人間は孤立主義にとても走りやすい。小さな集団に分かれてそれぞれの道を歩みたがる根強い傾向がある。たとえばニューギニアには800以上の言語があり、そのうちには、ほんと数キロメートルの範囲だけで話されていて、しかも、近隣のどの言語とも英語とフランス語ほどかけ離れているため、互いに全く理解できないものさえある。今でも、世界では7000もの言語が話されており、そのどれを話す人も、近隣の人から単語や伝統、儀式、嗜好を取り入れることには激しく抵抗する。
「文化的特質の垂直方向の伝達はおおむね誰にも気づかれないまま進むのに対して、水平方向の伝達は疑わしい目で見られたり、憤りをもって迎えられたりさえする」と進化生物学者のマーク・ペイゲルとルース・メイスはいう。

社会的動物である人間は、しかし小さな集団に分裂しようとする本質的傾向がある。一層の協力ではなく孤立に向かう不断の努力こそが、私たちの人類の歴史のもう一つの側面でもあるのだと。


実際、これは『多文化主義は失敗した』ヨーロッパで既に私たちが現実に目にしている光景でもあるわけで。移民たちを受け入れても、その同化政策をしなかった結果彼らは現地社会とは同化せず小集団のまま孤立を深めていくだけであったというオチ。垂直方向への文化伝播は維持されたが、それに比べて水平方向へは遅々とした歩みでしかなかった。あるいはアメリカの黒人社会でも同様に。
何もしなくてもやがて彼らは同じ社会の一員となるのだ、という幻想は見事に打ち砕かれた。
それは本邦でも同様に、昨今の沖縄での米軍基地運動議論でも見られる構図でしょう。一部の彼らが「イデオロギーよりアイデンティティー」と叫んでいるように。


現代社会でも見られるこうした分裂の原因について、人種が~宗教が~国籍が~という人たちもいらっしゃいますけども、やっぱり個人的にはそれこそ人間の文化が持つ普遍の論理だから、というのが最もしっくり来るとは個人的に思っているんですよね。
私たちは出来る限り、気心のしれた身内の小集団で暮らしていきたーい、という気持ちがあるのだと。

「文化はメッセンジャーを撃ち殺すのが好きなようだ」*2

私たちが今目にしているSNSもだいたいそんな感じですよね。

SNSでは反対意見やアンチを撃ち殺すのが好きなようだ」

自分と違う意見は排斥することが大好きな私たち。
それは何もSNSを駆使する現代人たる私たちだけの特質というだけでなく、むしろ人間が生み出す文化の本質的性質として。


みなさんはいかがお考えでしょうか?

*1:上巻P110

*2:同上。