「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」

ネトウヨか、あるいは日本の過去の蛮行を糾弾する正義の人となるのだ!



日本「戦犯」ステッカー可決 貼るのは生徒の判断 韓国:朝日新聞デジタル
韓国さんちがまたオモシロニュースを提供して『嫌韓』な人たちを喜ばせていたそうで。まぁ韓国がそれをやってしまうこと自体はそこまで不思議ではないし日記ネタにするほどではないかなあ。
冷戦構造もあってこれまでは両国政治家の努力によってどうにか維持していた「友好国」「間接的な同盟国」という建前さえまるっと失いつつある状況というのは、国際関係ネタ好きな個人としてはとても興味深い時代性を感じるお話ではありますけど。そりゃホワイトな関係じゃなくなっちゃうよね。
制度的問題云々を越えた、国民感情の帰結としての、別離。
53年前のいじめ加害者を同窓会で殺害した69歳の男「気持ちはわかる」「誰も救われない」の声 | ニコニコニュース
私たちだってそれとは別のイジメ復讐ニュースなんかで「やられた方はずっと忘れない」と指摘する人は少なくないわけだし。加害者の末裔(直接の責任はない)の一人として、しかし韓国がそれを忘れずに引きずり続けること自体は理解できます。
やっぱりまったく生産性はないよなあと現代人的な他人事感満載では思いますけど。


しかしこうした昨今の、かなり擁護のむつかしい「反日本」な行動においても尚、それを擁護する人たちが日本国内からも少なくないというのはとても興味深い構図だとは思うんですよね。
アマゾン群像劇 - maukitiの日記
以下前回日記で国家の『原罪』ネタを書いていて改めて考えた、適当なお話。





こうした反日韓国なニュースが出ると、一方で「それでも日本が悪い!」と登場してくれて火に油を更に注ぐのも、悲しいかな昨今日本の日常風景となりつつもあるわけで。それを受けてまた嫌韓派は燃え上がる様式美。まぁ本人たちはどちらもバランスを取っているつもりなのかもしれませんけど。
小泉悠先生風に言うと*1「日本は韓国にいかなる自己主張もしてはならないと信じる人」たち。


よく本邦で『自虐史観』が批判されたりしますけども、そうした自虐史観って戦前戦中日本と同様かそれ以上に過去の歴史においてやっちゃいました満載である、むしろ欧米社会の方が本場ですらあるんですよね。
植民地支配、人種差別、民族浄化etc……。いずれも私たち日本のような小物とはスケールが違うレベルのあちらでは、「まだ贖罪が足りない!」という声も同様に。
そうした贖罪意識が、無計画な移民難民受け入れ政策に見られるように現代にも繋がり続けている、というのはずっと言われ続けている構図でもあるわけで。戦後ドイツが目指してきた『正しき道徳的帝国』も同じ文脈でしょう。
喜ぶべきか悲しむべきか、こうした構図はかつての戦前日本と同様に、「進んでいる西洋を追いかける日本」という韻を踏んだ歴史の再生産であるかもしれない。
まぁこうした構図が少なからず日本でも通用しているというのは、現代日本と言うのはそこそこリベラルな社会である、という個人的見解に繋がってもいるわけですけど。


ともあれ、そうした自虐史観な構造において、それはもう身も蓋もない考察をしていたのが、パスカル・ブリュックネール*2であり、そこで出てくるのが『罪悪感という麻薬』という概念であります。

フランスの哲学者パスカル・ブリュックネールが著書 La Tyrannie de la penitence(「贖罪の暴虐」未邦訳)で診断したように、罪悪感は西洋の道徳的麻薬と化している。人々はそれが好きだから、それにふけるのだ。罪悪感でハイになる。罪悪感は人々を高揚させ、刺激する。彼らは自分自身や自分たちの知る範囲の人々に責任を 負う人間であることをやめ、自薦によって生者と死者の代理人となり、恐ろしい歴史の担い手となり、さらには人類の潜在的な贖罪主となっていく。つまらない人間が、いっぱしの人間になるわけだ。

*3

リベラルなブリュックネールさんの著作には、こういうぶっちゃけオモシロ考察がいっぱいなのでおススメです。上記だけでなく邦訳もっといっぱい出てほしい(いつもの)。


『原罪』がある加害者な私たちは、歴史的悪行について被害者へ永遠に償い続けなければならない。
――まぁ別にそう主張する事自体はいいんですよ。それを言われた側が真に受けるか鼻で笑うかどうかはまったく別問題だし。


ブリュックネールの慧眼は、つまり被害者側から敢えてそのことを持ち出すこと自体に、道徳的麻薬のような効果がある、と看破している点にある。
前回日記のような自然保護運動なんかでも同様に「正義に酔う」人たちと言うのは昔からそうだと言うと身も蓋もないかもしれませんけど。そりゃ自縄自縛なのにがんばっちゃうよね。
だって「反省(憂慮)している自分が」「反省(憂慮)していない奴らを」非難するのは気持ちいいんだもん。


ミクロな個人生活において「何者にもなれない」故に、その鬱屈を『国家』などに付託して自尊心を満足させる=ネトウヨである、というのは(全面的に賛成しているかはともかくとして)昔からよく見かけそれなりに理解できる言説ではあります。
でもそれって、ネトウヨの逆側にあるだろう、国家や民族などの過去の負の歴史を掘り返し続ける人たちも同様である、とブリュックネールは述べているんですよね。
まさにそうすることが、自分が平凡な他者とは違う存在である、という自己証明となる故に。



  • 私は反省しない愚民どもと違ってきちんと過去の歴史と向き合い苦しんでいる。
    • 故に私は立派な人物である。
  • 私は視野の狭い愚民どもと違ってきちんとあるべき国家像を考えて憂いている。
    • 故に私は立派な人物である。

きっと何物にもなれないお前たちに告げる!
ネトウヨか、戦前戦中日本時代の悪行を非難する正義マンとなるのだ!


その意味でいうと、ネトウヨ反日無罪な人たちも「つまらない人間がいっぱしの人間になる」という意味で、どちらも一周まわってそっくりなんだなあと生暖かい気持ちにはなるんですよね。
特別な存在になりたい人たち。まぁその気持ち自体については、私たちの誰にも絶対に否定できないしね。そして出来るだけ楽な手段でそうなりたいという気持ちも。
ブリュックネール先生はすごいなあ。


「何者にもなれない」私たちの生存戦略について。
みなさんはいかがお考えでしょうか?






おまけ

投稿直前に見返したらこのタイトル使うの3年ぶり3回目だった。書いている僕自身が何者でもないからしかたないね。3年後また同じタイトルで書きたい。
きっと何者にもなれない子供たちに告げる - maukitiの日記
きっと何者にもなれないお前たちに告げる - maukitiの日記