なんとなくフテキセツ

「連想」させてしまう故に不適切な存在は公から削除、という流れは一般的になっていくのかなあ。



コロンブス像の頭部破壊 米ボストン、人種問題で反発強まる 写真7枚 国際ニュース:AFPBB News
米動画サービスが『風と共に去りぬ』配信停止 人種差別理由に 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
「差別連想」欧州も像撤去…英・ベルギー 奴隷貿易商など : 国際 : ニュース : 読売新聞オンライン
ということで昨日の通常日記からのピックアップ(確率非公開)日記。

 今回被害に遭った像は、ボストン市中心部の公園で台座の上に設置されていた。同市警当局がAFPに明らかにしたところによると、警察への通報があったのは10日午前0時すぎ。逮捕者は出ていないという。

 この像は米国各地のコロンブス像と同様、長年にわたり議論の的となっており、これまでにも破壊行為の被害に遭っていた。

 イタリアの探検家コロンブスは米大陸の発見者として教科書で紹介されてきたが、米大陸で長年にわたる先住民の虐殺を招いた人物だと捉える人も多く、南北戦争(American Civil War)中に奴隷制度を支持した南軍の将軍と同様にたびたび非難の対象となっている。(c)AFP

コロンブス像の頭部破壊 米ボストン、人種問題で反発強まる 写真7枚 国際ニュース:AFPBB News

個人的にこの騒動がすごく現代的で面白いと思っているのは、アメリカのコロンブス像や、イギリスのグラッドストン像、ベルギーのレオポルド二世の像(これは残当)などの各種像、あるいはそうした過去の偉人たちを冠された施設名など、
「差別の当事者以外の人たちが」まぁ差別そのものではなく間接的にそれを連想させるモノまでも撤去しようとしている動きが目立っている点なんですよね。
悪いことをした人間を吊るすのではなくモノに当たる人たち。
いやその意味では理性的だと言えなくもないのか。


実際、上記ニュースでも指摘されているように今のアメリカで起きている「コロンブス否定」って本邦ネット上では割と盛り上がっているネタではありますけども、それこそあちらでは500周年記念辺りにはもうかなり風向きは変わっていたわけでしょう。
コロンブス・デー - Wikipedia
彼の偉業を言祝ぐことは、その暴力や差別主義を称賛することに他ならない、なんて。
人種差別や憎悪扇動をする人たちを直接に排除するのではなく、厳密には最早社会には存在していないモノから生まれる『連想』を否定しようとすることに熱心人たち。



まぁ理屈としては理解できるんですよ。
直接その差別的発言や行動を採った人たちを、もぐら叩き的に攻撃するよりもその原因であるモノを無くした方が手っ取り早い。
ゴ〇〇リ*1は巣穴から叩け!
男たちに「ふしだらな気持ち」を連想させてしまうので、女性たちはきちんと肌や髪を隠しベールに身を包むべきだもんね!
……まぁ確かにそうかもしれないね。
実際にそう信じている人たちは世界にいっぱいいるもんね。
彼らがそうしているように、我々の善きココロを惑わし誘惑し連想させてしまうようなモノを社会から排除していけば「善良な考えしか抱かない」すばらしい我々が作り出せるかもしれない。




個人的には――賛成するかはともかくとして―――差別主義に対して厳罰化=負のインセンティブをもっとやった方がより効果的だとは思いますけど。
でもそうした差別行為の厳罰化や取り締まり強化や表現の自由を狭めることは、我々の伝統である自由社会とは基本的に相容れない故にバランスを取ることがひたすら難しい。
そんなハードルの高さや明確なデメリットが見えてしまう故に、代替案として彼ら彼女らはこうした直接的な取り締まりではなく、間接的な制限に走ってしまう構図なのだと理解しています。
わかりやすさ重視。まぁこれも現代的価値観の一つかもしれない。


個人の自由を制限するような難しいジレンマに悩まされる議論はしたくないし、政府や警察の権限をより強力にはしたくないけれども、でもでも差別には反対した~い!
という素直すぎる気持ちをとても上手く満足させるやり方。
その結実が、像の破壊である。


僕としては、そうした自由社会との摩擦を受け入れた上で真面目に議論しようとせずに、あるいはその排除すべき基準を明確にしないまま、ただなんとなく像だけ破壊して差別反対のトレンドに乗ろうとしているのは、まぁファッションというかカジュアルな差別反対が過ぎるんじゃないかと。
法律で禁止させたくないので、代替案として社会からなんとなく不適切なモノ(その基準は自分たちが決める)を排除するのだ! 
――と開き直られたら、まぁそれはそれで一つの解決策ではありますので、納得は出来ますけど。



ということで当日記を読んでくださっている真面目な()読者の皆様におかれましては、
我々は差別的言動を公の社会から排除するという公共善を実現するために、一体どれだけの負のインセンティブを我々に課すべきなのだろうか?
ということを考えていく方がずっと生産的なんじゃないかと。


個人的自由として許容されるべきその射程と、正義実現の為のその制限について。
我々は差別的言動を社会からなくすために、一体どれだけの『自由』を差し出すべきなのか?


みなさんはいかがお考えでしょうか?

*1:この表現って現代ポリコレ的にすごーくやばそう。