wikipedia編集合戦で問われる「中立に見せかける程度の能力」の有無

どっちもがんばえ~。



黒人差別への抗議行動に関してWikipedia上でも「正義と中立性を巡る戦い」が繰り広げられている - GIGAZINE
これは端から見ている分には面白くて、いいぞもっとやれなお話。
日本でも偶に話題になるwikipedia編集合戦ではありますけども、やっぱりあちらでも似たようなことをやっているだなあと生暖かい気持ちになりますよね。
――いや、むしろ殊更に日本の私たちだけが愚かなのではなかったと安心するお話ではあるかもしれない。
まぁぶっちゃけ『政治分断の度合い』で考えれば本邦よりもずっと進歩的()なあちらを考えれば当然のお話、ではありますけど。

また、「フロイド氏の前科について記すべきか否か」という議題も、Wikipediaの編集者らを騒がせました。前科について記述するべきだと主張する編集者らは、「Wikipediaは検閲されていない」と述べて情報を意図的に編集することを非難しています。一方、前科を記述することに否定的な編集者らは、「犯罪歴は5月25日に殺害されたことと直接の関係はない」と訴え、前科を記述することで前科の存在が過度に強調されてしまうと懸念を表明しました。なお、記事作成時点では英語版の「George Floyd(ジョージ・フロイド)」と「Killing of George Floyd」の両方に、フロイド氏の前科について記載されています。

さらに「George Floyd Protests(ジョージ・フロイド・デモ)」という記事中では、「riot(暴動)」という言葉を使うかどうかについて論争が巻き起こりました。ある編集者は「信頼できるニュースソースは抗議活動を『暴動』と呼んでいない」と主張しましたが、記事作成時点では「George Floyd Protests」の記事中で「riot」という言葉が複数回使われており、結果的に「riot」という言葉の使用は認められたようです。

黒人差別への抗議行動に関してWikipedia上でも「正義と中立性を巡る戦い」が繰り広げられている - GIGAZINE

うーん、ザ・泥沼。
「暴動という呼称」と「前科の有無」かぁ確かに悩んじゃうね。
それらを記事に載せれば多少なりとも行間や文脈が生まれてしまうことは間違いない。
一体どこまで背景情報を書くことが、一体どこまで使用されている呼称を用いるべきなのか、そこに画一な基準があるかというとあんまりあるとは思えない。



ともあれ、まぁそもそも『中立』についての概念で揉めている時点でお察しなお話ではあって、まずそこを定義しない限りは進まないのに。
――まぁ個人的なポジションとしては、完全な中立なんて不可能なんだから諦めろと言いたくなってしまう気持ちはあるものの、でも、その意味でいうと上記で言われている「中立から離れるのではなく、より中立的になりましょう」という前向きなお言葉はそれなりに刺さる所はあったりします。
アキレスの亀のように永遠に到達できない真の中立性。

ハリソン氏は一部の派閥によって「中立性」が武器として使われる可能性を示す事例だと指摘しました。

黒人差別への抗議行動に関してWikipedia上でも「正義と中立性を巡る戦い」が繰り広げられている - GIGAZINE

ということで、ここで編集合戦に勤しむ彼ら彼女らが目指すべきなのは真に「中立」かどうかではなく、「中立のように見える」かどうかなんですよね。
その一見した公正さ――そしてその隅には小さな文字で責任回避が図られている――こそがアピールポイントであり武器であり、人びとに「中立」な印象を勝ち取ることになる。
何が中立か厳密には定義できない以上、できるのはふわっとした曖昧な読者の印象に適うことだけを目指すことが最適解になる。。


自らの正義を主張するために、どのようにして中立っぽさを醸し出すことができるか。
wikipedia編集合戦がやっていることってつまりそういうことだよね。
一部の頭のぶっ飛んだ人たちを除けば、世の中の大多数はそういう公正且つ狡猾な普遍的論理の下に動いていると言ってしまうと身も蓋もありませんけど。


中立に見せかけることが自信ニキなみなさんは、一度wikipedia編集合戦に挑戦してみるのはいかがでしょうか?