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「(プラスチックスプーンも)欲しがりません勝つまでは」

レジ袋だけでなくプラスチックスプーンまで奪われようとしている私たちも、脱プラや気候変動対策など事実上強要されることで「本来持っている権利を奪われている」のだろうか?



「プラスチック製スプーン有料化」検討報道にネットどう反応? ツイート分析で見る懸念と賛意: J-CAST ニュース
ということで俺たちの進次郎がまたやってくれたそうで。

ツイッターユーザーは、今回の報道をどう受け止めたのだろうか。J-CASTニュースは9日、SNS分析ツール「ソーシャルインサイト」を用いて、同日中の19時までにつぶやかれた「フォーク」「スプーン」のいずれかのワードに加え、「有料」というワードが含まれるツイートを分析。19時時点で集計できた7036件のツイートを対象に、ツイート内容がポジティブかネガティブかを示す「ポジネガ分析」を行ったところ、ネガティブな反応(6.88%)がポジティブな反応(3.17%)を上回った。

「プラスチック製スプーン有料化」検討報道にネットどう反応? ツイート分析で見る懸念と賛意: J-CAST ニュース

これまで当たり前にあったモノが消える、という点でネガティブ評価が多くなるのは理解できます。
まぁそうした常態を打破することこそ進歩的運動の意義でもあるんですけど。



ともあれ、ここで面白いと思うのはレジ袋に続くこうした有料化って、前回通常日記で少し言及した原発避難者の怒りと嘆きの声にかなり似た構図になる所だと思うんですよね。
《福島原発事故》自主避難を「自己責任」と切り捨てられた母子避難者の苦悩と闘い | 週刊女性PRIME
それが事実上の強制に等しい『自粛』の構図として。

コロナ禍で、「目に見えないものとの闘いで、どんどん日常生活が奪われるさま」は、森松さんに、原発事故当時を彷彿とさせた。

「“自粛”は、“自主避難”という言葉の使われ方と似ています」

 と森松さんは言う。確かに“自粛”は、自らの自由な選択ではなく“感染拡大がなければ必要なかったもの”だ。

「本来、持っているはずの権利を、手放すことを強要されているんです」

 長期にわたり“自粛”を強いられる中、森松さんの言葉が腑に落ちる人は多いのではないだろうか。「自主避難」も強いられたものなのだ。

《福島原発事故》自主避難を「自己責任」と切り捨てられた母子避難者の苦悩と闘い | 週刊女性PRIME

こうした理屈から、自主避難を強いられているのは人権問題だと国連人権理事会でスピーチまでしている彼女。
その自主避難の必要性や是非はともかくとして、空気による圧力によって生まれた自粛が事実上の権利放棄に繋がっている、という彼女の指摘には一理あると思うんですよね。
それが人権侵害かどうかも同じくともかくとして、本来あった権利が奪われている、という点はまぁその通りだよなあと。
レジ袋でもプラスチックスプーンでも同じ構図で私たちは奪われてしまったわけで。


字幕:グレタさんがEUに訴え、温室効果ガス削減に「できる限り手を尽くして」 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
トラウデン直美さんの「環境に配慮した商品ですか?」発言に飛び交う批判。気候科学者が苦言「反発している人は…」 | ハフポスト
つまり、例えばグレタさんのような「真剣に(その点自体は絶対に疑うことはできない)」気候変動問題にコミットせよと叫ぶ人たちへの反発、あるいはトラウデン直美さんなんかが言うSDGsへの取り組みへの反発って、こうした彼女の『自粛』という空気への反発とかなり近いポジションにあるんじゃないかと。

気候変動に関連する発言にこういった反発を示す人の中には、「自分が批判されてる」と感じてしまう人や、「対策を強いられるのは負担だ」という「負担意識」を抱いてしまう人が一定数いると僕は考えています。しかも、今回のトラウデンさんの発言は、「全員やって下さい」と言ったわけではないでしょう。共感しない人は、行動しなければいいんです。

トラウデン直美さんの「環境に配慮した商品ですか?」発言に飛び交う批判。気候科学者が苦言「反発している人は…」 | ハフポスト

もちろん彼ら彼女らはそんなことはないと否定しているものの、そんなの綺麗事だよねえ。
それこそ上記自主避難者の彼女が強要されているのと同じくらいには、行動しなければいい、なんて選択肢ほとんど想定されていないと思うよ。

「本来、持っているはずの権利を、手放すことを強要されているんです」

私たちは気候変動やSDGsにコミットするように求められ、「本来持っている権利を手放す」ことを強要されているのだろうか?
――それに賛成するか反対するかはともかくとして、少なくとも僕はその通りだと思うんですよね。


グレタさんやトラウデン直美さんが言うことは、ぶっちゃけてしまえば、私たちに本来持っていた権利を手放すべきだ、と発言していることに等しい。その点を誤魔化すのはフェアではないよなあと。
ただ、その上で個人の権利や自由を手放すことによってより大きな大義を実現できる――少なくとも彼女たちはそう確信しているからそう行動しているのでしょうし――まぁ確かにそういう構図があることも間違っていない、とも同様に僕も同意します。
個人よりも社会全体の大義実現を重要視すべきである。
個人主義のおわり? - maukitiの日記
いやあ右も左もリベラルも愛国者も宗教家も、みんなして個人主義の終わりを叫ぶようになってきてwktkしてくるよねえ!

このまま個人の幸福追求を第一とする個人主義が終わり、我々は「個人よりも集団の目的を優先する」集団主義への道程を歩むことになるのだろうか?
――グレタさんが言っていることって(解っているのかいないのか本人は直接口には出しませんけど)結局そういうことなんですよね。
そしてそれは、単純に環境運動という枠組みを超えた、我々の文化や社会や哲学についての重要なテーマでもある。

個人主義のおわり? - maukitiの日記

少なくとも僕は、気候変動やSDGsへのマクロな取り組みや、レジ袋もプラスチックスプーンの有料化のようなミクロな取り組みも、同じように「本来、持っているはずの権利を、手放すことを強要されている」構図そのものだと思うよ。
より大きな大義を実現するために、私たちは個人の権利を手放すように強要されている、ことが一般化しつつある現代世界。
個人主義のおわり。




まぁこれっていつかどこかで見た、個人がガマンすることで集団の大義を実現しようとする社会、そのものなのがやっぱり面白いよね。
「欲しがりません勝つまでは」なんて。
どこぞの戦中ジャップランドかな???
日本人は戦争を忘れてしまったからね。しかたないね。




そうしたい人たちが自発的にやる分には話は簡単だったんですよ。
しかし実際にはそう考えていない私たちも、レジ袋やプラスチックスプーンを拒否することを、社会の空気として事実上強制されるようになっている現状。
であれば、現代の日本社会で進む「脱プラスチック」という空気感も、やはり本来あるはずだった私たちの日常生活や権利を奪われている『人権問題』ということになるのだろうか?


社会全体に関わる重要な問題を解決するために、私たちは――より正確には「私」以外の他の人たちに対して――一体どこまで個人の権利や自由を放棄させてもいいと思っているのだろうか?
レジ袋やプラスチックスプーンの有料化の反発って、つまるところそういう問題に行きつくのだと私は考えています。
そうした本来であれば慎重な議論が必要であろうジレンマについて自覚的であればいいものの、無自覚だったらおっそろしいお話だよなあとも。


日本社会――ひいてはその構成員である私たちは、一体どこまでそれを許容するのでしょうね。
みなさんはいかがお考えでしょうか?