普遍的人権と二重基準

その難民対応の二重基準ジーン・カークパトリックが見たらどう思うでしょうか?(半年ぶり三回目)


スラヴォイ・ジジェク「欧州は難民に対する“二重基準”という醜さを曝け出した」 | ヨーロッパを守るとはどういう意味か | クーリエ・ジャポン
ということでジジェク先生のありがたい――いつも通りの彼らしいと言えば彼らしい――旧き良き『左派』復活の為の、割と過激な提言であります。

このニュースについてジジェクは「私はスロベニア国民として、誇りに思うと同時に恥ずかしくも思った」と記し、スロベニア政府が、アフガニスタン難民の受け入れを拒否し、ベラルーシからポーランド国境に大勢の移民が押し寄せる「移民危機」が起こった際にはヨーロッパが攻撃を受けていると主張して、排除を支援した事例と対比させている。

スラヴォイ・ジジェク「欧州は難民に対する“二重基準”という醜さを曝け出した」 | ヨーロッパを守るとはどういう意味か | クーリエ・ジャポン

ポーランドなんかがベラルーシからの『難民爆弾』を真冬に放水で追い払っていたというのが、去年割と大きなニュースとなっていましたけども、
CNN.co.jp : ベラルーシ国境で暴動、ポーランド警備隊が放水銃を発射も移民が投石 - (1/2)
それが今回のウクライナでの侵略戦争では、まったく違う対応となっているというのはまぁ本邦でもちょくちょく指摘されているお話ではありますよね。
そのあまりにもあからさまな二重基準について。
ジジェクは激怒した。
必ず、かの邪知暴虐な政策を排除を除かねばならぬと決意した。


ともあれ、でもまぁその行為自体を見ればそこまで怒ることでもないとは個人的には素朴に思うんですよね。
そりゃ誰だって自分と生活や文化や歴史などがよく似た人たちの方が、ソフトな心理的にも、あるいはハードな収容施設の準備という面でも、そのハードルが低いのは間違いないんだから。
基本的にリベラルを自称し普遍的権利という幻想を信じている僕でも、韓国や台湾のような文化圏の近い人たちの受け入れと比較して例えば北センチネル島の住民を難民と同じ様に受け入れられるかと言ったらさすがに二の足を踏んでしまうだろうし。黒か白かといった理念として単純な話ではなく、現実にはそのハードルの高さには無限にグレーゾーンのグラデーションが広がっている。
結局、ここで問題となるのは世界中の誰でも平等に、つまるところ『普遍的』に同じ権利があると謳っていた彼ら彼女らの過去のポジションとの整合性の問題であるわけでしょう。
故にジジェク先生のように、小さな正義ではなくより大きな連帯を目指す誠実なリベラルな人たちであるほどそのダブルスタンダードに激怒することになる。
だってその難民の扱いという点で明確に差を設けているんだから。



いまふたたび『独裁制と二重基準』の時代? - maukitiの日記
やっぱり今こそふたたび『独裁制と二重基準』の時代? - maukitiの日記
個人的にこの構図って当日記でも大好きなネタでもある黎明期のネオコンの一人でもあったジーン・カークパトリックの『独裁制二重基準』っぽくてすごく面白いと思うんですよね。

われわれは(「多様性」や国家的自立という美名の下で)共産主義諸国の現状維持を認めているのに、「右翼」独裁者の支配する国や白人の寡頭体制については、それを認めていないようにみえる。

彼女はその1970年代にあったリベラルたちのそうした矛盾を否定するのではなく、冷戦を戦う上でも現地住民を守る上でもむしろ許容するほうがまだマシだと指摘したわけですよ。共産主義革命に比べたら独裁制の方がまだマシである、なんて。
おそらく、悲しいことに、今回ポーランドスロベニアが見せた二重基準も、少なくとも現地住民にとってまだマシな選択肢でしょう。
まぁ『普遍的価値観』という言葉が謳うようにやっぱりリベラルとしては自殺なんですけど。
そりゃジジェク先生も激怒しちゃうよね。





その『普遍的権利』を「より小さなヨーロッパ(……まぁアメリカもギリ入れてやってもいいかな)」という単位にまで縮小してしまえば何の問題も無くなる。
――難民を受け入れられるのは、同じヨーロッパ市民だからである、なんて。
ロシア、欧州評議会脱退を通告 人権条約からも離脱:時事ドットコム
実際せいぜい10年ちょっと前まではその「ヨーロッパ」という枠組みにロシアも片足突っ込んでいたはずが、今ではご覧の通り、ロシアは我々ヨーロッパの一員ではない、とバッサリですよ。
ロシアに戻れる日はいつ、企業の撤退続く-ウクライナ侵攻で状況一変 - Bloomberg
それは単純に国家同士の決別というだけでなく民間企業においても。
なんなら『市民』としてはこっちの方がより大きな分断かもしれない。



意識の高いヨーロッパ人たちは、自らの掲げた全世界に普く広がるその理想と、ヨーロッパの平和と安寧を天秤に掛けた結果、後者を選ぶことで欧州は難民に対する“二重基準”という醜さを曝け出している。

「ヨーロッパを守ることは、あらゆる場所の自由のために戦うことだと、私たちは証明する準備ができているのだろうか? 難民を平等に扱うことを拒否する行為は、世界に対してまったく異なるメッセージを送っている」と記事を締めくくっている。

スラヴォイ・ジジェク「欧州は難民に対する“二重基準”という醜さを曝け出した」 | ヨーロッパを守るとはどういう意味か | クーリエ・ジャポン

ジジェクが主張するように、中東や北アフリカとヨーロッパの難民を同じように救うべきだとその『二重基準』を否定すべきなのだろうか?
――もちろんこれまでそうだったように、それを口にするのは簡単なんですよ。
しかしその二重基準を否定するということは彼が言うように畢竟、南米、中東、アフリカ、東南アジアなどヨーロッパ外に広がるあらゆる場所の『自由』の為に戦う準備をすべきということでもある。
もしかして:正義の国アメリ
あるいは「世界に対してまったく異なるメッセージ」を送る。つまるところ世界は価値観を共有できず『文明が衝突』する場所なのだと率直に認め、「大きな世界」ではなく「小さなヨーロッパ」でこそ平和と安寧をもたらすと満足すべきなのだろうか?
もしかして:小ドイツ主義


現代ヨーロッパが戦争に際し露にした、その二重基準について。
おそらくヨーロッパの紳士淑女からは「我々と同じ権利はない」と見なされ見捨てられるであろう中世ジャップランドのみなさんはいかがお考えでしょうか?
結局国連など国際機関もウクライナを助けてくれなかったのだし、やっぱ頼るべきは軍事同盟と核兵器かな?
もしかして:核シェアリング
まぁ無邪気で素朴な欧米信仰のある平和ボケした私たち日本人がいきなりそこまで思い詰める可能性は高くない*1とは思うものの、でもジジェク先生が言うように「南米、中東、アフリカ、東南アジア」などがこのメッセージを受け取った結果どうなるんでしょうねえ……という点でやっぱり彼の懸念には同意するところではあります。
 
 

*1:と言ってもせいぜい100年前には全く逆の事を考えていたんですけど、