石川優実さんの新しい心

ならば『たわわ』を見て実際に痴漢やセクハラをした男も、無罪と言えるだろうか?


石川優実さん「私がグラビアをやってた時も風俗で働いていた時も私の自由意志で選んでやっていたことになるんだな。あんなしんどい精神状態の時のものを自己決定権といわれるのはつらい」 - Togetter
いつものようにネットの玩具になっていると生暖かく見ていたんですが、しかしちょっと中身を見ると今回は個人的に面白いことを言っているとは思うんですよね。
不勉強ながら以前から何度か炎上している件で初めて存在を知ったので、今度是非作品を買って勉強させていただきます、とお馴染みの社交辞令を言って地雷を踏むような羽目にならずに済んだパターン。

私がしんどいなと思うのは、「本人の意思の尊重」に基づいて話をしてるんだったら、私がグラビアをやっていた時も風俗で働いていた時も全て私の自由意思で選んでやっていたことになるんだなって感じるからなんですよね。
あんなしんどい精神状態の時のものを自己決定権と言われるのはつらい。

石川優実さん「私がグラビアをやってた時も風俗で働いていた時も私の自由意志で選んでやっていたことになるんだな。あんなしんどい精神状態の時のものを自己決定権といわれるのはつらい」 - Togetter

自由意志とは何か、ということについてとても考えさせられるテーマだと思います。
なぜ「自由意志など存在しない」と科学者は主張するのか? - GIGAZINE
ベンジャミン・リベットの自由意志の存在についての実験から、最近ではAI開発の議論も絡んで割と最前線のテーマであるわけだし。


個人的にこの話を見て思い出したのが、日記タイトルの元ネタでもある最近ノーベル物理学賞を取ったロジャー・ペンローズ先生の『皇帝の新しい心』で言っていたお話で、そこで「その場その場の状況や合理性に流されてしまう(アルゴリズム的)方こそが無意識である」と仰っているんですよね。
むしろ合理性や計算で説明できない判断に従うことこそ、意識的思考である、なんて。
それこそミクロな個人的生活を送っている私たちだって、サブリミナル効果ブラック企業による洗脳などでは精神的・肉体的に追い詰めてからこそ無意識に行動させることが可能になる、という話は多かれ少なかれ聞いたことがあるわけだし。



そんなペンローズ先生的議論で言えば、確かに精神的に追い詰められ自由意志はなかったと当時を振り返る彼女の主張には現代科学の視点からも支持される可能性のあるお話だと思います。
――ただこの議論って、既に上記ネタ元のtogetterでちょくちょく指摘されているように、現代の人間社会の根本をかなり揺るがしかねないセンシティブな議論ではあるんですよ。
それを解ってやっているなら社会を動かすアクティビストとして素晴らしいと評するしかありませんけど、無自覚ならば……うん、まぁ、そうねえ。


この構図についても日常生活を送る私たちが殺人事件等の判決などのニュースなどで偶に見る問題でもあって、つまり心神耗弱や心神喪失と言った『自由意志』の範囲を狭めれば狭めるほど、それは結果として当人の『無罪証明』に繋がってしまう。
認知科学と自由意志研究の大家であるダニエル・デネット先生*1が言う、所謂「潜行している無罪証明という亡霊」を解き放ってしまうから。
科学が進歩し「実は私たちに自由意志が無かった」と証明されてしまえばしまうほど、それは私たちの倫理的責任を弱めていく。
これは諸々の宗教における神と人間の悪行という頻出のテーマでもあって、やっぱり私たちにとって普遍的な哲学問題でもあるのでしょう。


「月曜日のたわわ」日経広告の波紋 「痴漢を助長する」と指摘された過激表現とは?(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース
ここで皮肉にも面白い親和性を見せるのが、少し前にも炎上していた「たわわ」騒動でもあります。。
つまり、今回のような狭い『自由意志』をめぐる議論を前提にして考えると、日経のたわわ広告を見た人間に痴漢やセクハラを助長するような悪影響があるからけしからんと怒る人たちは、その広告を見て現実に痴漢に走った男たちはあくまでその巨乳JKなスケベ漫画に唆されただけ=無意識であって、そこに本人の『自由意志』はなくつまるところ無罪である、という結論に至ってしまう。
たわわがギルティな存在であればあるほど、たわわを見て痴漢をした性犯罪者の男の罪は軽くなる。
う~ん、なんてハラショーな展開。


こうした構図は以前からポルノなどを取り締まろうとする(過激な)フェミニスト運動への皮肉な成り行きの一つとして指摘されていて、ポルノの悪影響を強く訴えれば訴えるほど、それを見て実際に性犯罪を犯した男性の自由意志の範囲は狭くなり、ポルノが悪かったので自分は悪くない(実際に裁判でそう主張した人もいる)と主張することで罪を回避することが可能になってしまいかねない。
女性の性的アピールについての是非の議論でもちょくちょく見かけますけど、一周回ってガチガチな男性優位社会で見られるような「男を誘惑した女が悪いのだ」的議論になってしまうのは皮肉と言うか、ちょっと面白過ぎるよね。
フェミニストじゃなくて男根主義者なのかな???



ともあれ、ということで石川優実さんの「自由意志はなかった」という主張は、かのようにして現代社会における特に倫理的責任能力の追求について、致命的な一撃を与えかねない取り扱い注意なお話ではあります。
しかし、だからといって、まさに彼女自身も経験からそう主張しているように、科学の進歩によって私たちの心の仕組みを解き明かされどんどん『自由意志』の範囲が狭まっていっているのも間違いない。
AV対策法案、なぜ今? 18歳成人で被害増の恐れ―ニュースQ&A:時事ドットコム
昨今では「大人」扱いする年齢の引き下げなんかがニュースになっていたりしますけども、むしろその責任能力を決定するような自由意志が科学的には――そして盛り上がる表現規制の意味でも――狭まっていっているのは大変愉快で面白いと個人的には思っています。

国連女性機関は「男性が未成年の女性を性的に搾取することを奨励するかのような危険もはらむ」と広告を掲載した日経新聞を非難。

「月曜日のたわわ」日経広告の波紋 「痴漢を助長する」と指摘された過激表現とは?(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース

そうそう国連の女性機関もそう言っているんだもんね。
ぼくたちおとこはわるくない! 
ゆ~わくしてきたやつがわるいんだ!
自由意志なんてないせいしんじょうたいだったんだ!


私たちはその責任能力と自由意志のラインをどこに引くべきだろうか? という議論は今後ますます避けては通れなくなっていくのでしょう。
それはつまるところ、「自立した大人の定義」について=責任能力の有無という社会が荒れるの待ったなしな議論とほとんどそのまま地続きでもある。
かつては貧乏人や女性や黒人たちがそういう定義に入りえなかったことを考えると感慨深いよねえ。


みなさんはいかがお考えでしょうか?