努力・才能・勝利な世界を壊すもの

努力するそなたは美しい、と思わず言ってしまう私たち。


国際水連、トランスジェンダー選手の女子競技への出場を禁止 - BBCニュース
ということで割と以前から盛り上がってたトランスジェンダーの女子部門参加ネタで、割と大きな決定があったそうで。
結局のところ、この問題で不利益を被るのが事実上女性アスリートだけだったという点がほんと皮肉なお話だなあと想いながら見ていたので、まぁ当事者たちが決めたことなのであれば尊重すればいいんじゃないでしょうか。


ともあれ、今回の件で色々と露になった現代スポーツのそれを見守る私たちの建前と本音のお話。

「スポーツには本質的に排他的な面がある。15歳の少年を12歳未満の大会で競わせたり、ヘビー級のボクサーをバンタム級に出場させたりしない。パラリンピックにさまざまなクラスがあるのは、すべての人に公平な機会を与えるためだ」

「スポーツにおけるクラス分けの意義は、まさにそこにある。今までは女性だけが一方的に損をしそうになっていた。女性は公平なスポーツに参加する権利を失っていた」

国際水連、トランスジェンダー選手の女子競技への出場を禁止 - BBCニュース

割と現代スポーツ(が目指すところ)の本質的なお話ではあるよね。
単純に体格の大きい方が勝つ、というだけじゃ勝負も盛り上がらないじゃないですか。
そこで当人の才能に寄らないより平等――家庭環境など実際に平等かは諸説あるにしても――な努力勝負をさせることが私たちの感動を呼ぶ、ということこそ現代スポーツに価値があるとされている理由の大きな要因でもあるわけで。
上記にもある「スポーツには本質的に排他的な面がある」のは、そういう私たちの一見平等な戦いを求める需要に基づく帰結でもあります。


ところがサンデル先生なんかは『実力も運のうち 能力主義は正義か?』の中で能力主義と絡めて、現代社会においてスポーツでの成功に対する称賛が私たちの間で共有されるのは、そうした努力と勤勉による成功が強調されることこそが私たちが素朴に信じている「人間の主体性=自由の価値」という信念を高め強化してくれるからだ、なんて身も蓋も無いことを仰っているんですよね。
まぁ確かにそうだよね。オリンピックで活躍したアスリートたちを私たちがテレビで見る時、その偉業の単純な大きさに感動するというよりは、しばしば過酷な練習を続ける姿や苦難を克服する姿にこそ感動するのだし。
ただ勝つのではなく、そこに至るまでの努力、もっと言えば成功に繋がった努力や挫折こそ美しい、なんて。*1


一方でトランスジェンダーのそうした物語を語る場合、おそらくそこでは本来の性自認が認められるまでの苦難の道程が多くの部分で語られることになるわけでしょう。
もちろんそこでは当人たちが死ぬほど苦しんだのは間違いないものの、そうした物語を一般大衆が他と同様に受け入れるかというと……うん、まぁ、そうねえ。


女子部門に殴りこんだせいで努力・才能・勝利という現代スポーツが生存戦略として目指している美しい物語から排除されてしまった人たち。
そもそもそれ無しに元々興行として儲からないスポーツがやっていけるかというと、まぁたぶんそれもないので仕方ないんじゃないかな。
なんもかんも『努力』に価値を見出し、人間は自由であると信じたがる素朴で愚かな私たち視聴者がわるいんや!


みなさんはいかがお考えでしょうか?
 
 

*1:しかし一方で、そうしたアスリートたちの努力を称賛する態度こそが、結果として(本来は運の要素もかなり大きいはずなのに)歪な能力主義として努力の道徳的意義を誇張していることに繋がっているとサンデルは指摘する。