無法地帯のインターネット空間で生きる為に

創作活動と「晒されたもの負け」の恐怖。 - たまごまごごはん
いわゆる「悪意のある晒し」の結果、不幸な目に会ってしまうのって悲劇だよね、という話。


「大人になったらこれもネタにして笑えるようになるよ」と言うのは簡単ですが、意味もなくワニに食い荒らされたウサギの心を救うことはできません。

正直、どうすればいいのか皆目見当がつきません。一旦ネットから距離を置いて、時間がたって心が落ち着くのを待つほかありません。本当に理不尽でしかたないけれども。

「晒されたもの負け」な世界の仕組みが変わる日は来るんでしょうか。

創作活動と「晒されたもの負け」の恐怖。 - たまごまごごはん

別にこの問題に限らず、このような利己的なプレイヤー達よりも絶対的な権威のある存在が居ない、事実上の無政府状態において、
現実的に取り得る選択肢は3つあり、それにプラスして究極的な解決方法が1つある。


  • 自分を変える
    • 積極的に「環境・ルール」を受け入れる、もしくは消極的にでもそれを受け入れる。
  • 環境を変える
    • 「自分」を変えたくない場合、(あるとするならば)別の違う場所に行く。
  • ルールを変える
    • 「自分・環境」どちらも変えたくない場合。最も自分の理想に近いが故に、最も遠い。
  • 全てを放棄し逃げ出す
    • 究極的な解決手段

全ての選択肢は、全てのプレイヤー達に平等に存在している。そして選択の結果に得られるリターンも。
しかし選択肢を選ぶ為のコストの大小は、プレイヤーによって決定的に異なる。
だから問題はめんどくさく、複雑になってしまう。


「自分を変える」という方法は支払うべきコストは基本的に、相対的に最も少ない。
自分が納得して受け入れさえすればいいのだから。


「環境を変える」という方法は支払うべきコストの変動幅が最も大きい。
代替となる場所が存在するのならそのコストは下がっていくし、逆に満足できる代替地が無い場合は上がっていく。


「ルールを変える」という方法はその規模によって無限大にコストが増大していく。
自分も、場所も、変えたくないのならルールを変えるしかない。もしくは新たにルールを生み出すか。
概ね最も支払うべきコストが大きくなる、故にリターンも最も大きい。



こうしたプレイヤー達が支払うコストは相対的には余り変わらない。自分が納得するのが手軽だし、ルールを変えるのが一番大変。
しかし絶対値としては致命的なほどに変わってくるので、「○○すればいい」とか言うと大抵議論が荒れる。
誰もが同じような判断基準で行動できるわけではない。
自分がどれだけコストを払えるかを勘案して、自由意志で決めるのがよろしいかと思います。



さて置き、この場合一番悪かったのは、
自分か、場所か、ルールか、あるいは無政府状態で権威のある「何か」が居なかったせいなのか。