×「利他的な人」は嫌われる ○「利他的な人」は理解できない

だから嫌われると。まぁ結局結論は一緒なわけですが。そんな利得=信頼のお話。


http://wiredvision.jp/news/201008/2010083123.html
確かにゲーム理論風に考えればありえる話だとは思う。

この実験はもともと、ずるい振る舞いに対して予想される社会的排除の研究として計画されたもので、利己的でないプレイヤーは、対照実験のために用意されていた。
ゲームが終了した時点で、参加者たちは、どのプレイヤーと再びゲームをしたいかを尋ねられた。ほとんどの参加者は、欲張りのプレイヤーとは一緒にプレイしたくないと答えた。これは予想どおりだった。予想されていなかったことは、参加者のうち多数派が、非利己的なプレイヤーとプレイしたくないと答えたことだ。その理由は、「あの人のせいで自分が悪く見える」とか、あの人はルール違反をしているというものだった。利己的でないプレイヤーに、何か裏の目的があると疑う参加者もいた。

http://wiredvision.jp/news/201008/2010083123.html

一言でまとめてしまえば、利己的な振る舞いによる利得が保証しているのは、逆説的にその振る舞いに対する信頼感である。それだけの利得があったのだから次も同じようにやってくれるだろう、という次回の予測への保証。そうしたものがないから「あの人はルール違反をしているというものだった。利己的でないプレイヤーに、何か裏の目的があると疑う参加者もいた」なんて言われてしまう。
そんな保証がもし全く無い利他的な振る舞いには、一体何に次の行為に対する信頼感や安心感や保証を求めればいいのだろうか?


さて置き、重要なのは以下3点ではないかと思われます。

  • 繰り返し型ゲーム
  • 罪悪感の効用
  • 互恵的でない天使を拒否する戦略
繰り返し型ゲーム

一般にゲーム理論における繰り返し型ゲームにおいて、何故私たちが囚人のジレンマを克服できるのかというと、「相手も当然最も大きい利得を狙ってくるだろう」という合理的思考と「もし今回裏切ったら次回は自分も裏切り返す」というもしもの時の報復戦略があるからである。
しかし、自らの利得を考慮しないような利他的なプレイヤーにはそんな当然の前提条件としての「次回も相手は当然最も大きい利得を狙ってくるだろう」が通用しない*1。もしこれが普通の利己的なプレイヤーであったら「次回も当然そうだろう」という予測が可能となるのに、しかし利他的なプレイヤーは予測がつかない
例え短期的には自分の得る利益が増加したとしても、しかし長期的に見ればそれは因果が理解できない故に「不安定である」と考えてしまう。結果として、そのような利他的なプレイヤーとは組めないと思うようになる。


つまりぶっちゃけてしまえば、私たちは普通利己的であるが故に利己的なプレイヤーの心理は理解できても、純粋に利他的なプレイヤーの心理は理解できない。故にそんな「異星人」との共同のゲームを拒否する。

罪悪感の効能

引用先にあるような「あの人のせいで自分が悪く見える」という感情は正しい。自分は悪いことをしてしまったかもしれないという罪悪感。
私たちは内心で利己的であると自覚しながらも、しばしば、そうした行為に対して罪悪感を抱く。まぁそれは普通に人間として当然の感情であって、むしろどんなに自分勝手でワガママで利己的な行動をとってもなんら罪悪感を持たない人は、ふつう何らかの精神的な障害を疑われる。
その意味で私たちは常に、内心では自分の罪悪感とどこかで折り合いをつけて生きている。その基準が高いか低いかが表面上に出てきてその人固有の性向志向となって出てくる。そしてそれは私たちが持つ「正義感」との裏と表でもある。


多くの人はそんな風にして自分自身の中で折り合いをつけて生きているのに、そうした天使のように純粋な「利他的」な行為者と絶えず一緒に居るのは、まぁそれは心理的プレッシャーは大きい。だからそこから距離を置こうとする。そんな天使のような人びとを見て圧力を感じて苦しくなるのは、私たちが単純に悪魔的であるからではなくて、反対に私たちが罪悪感を持っているが故に、であるから。
皮肉な話ではあるものの、自らの利己的な振る舞いに罪悪感を強く抱く人であればあるほど、利他的なプレイヤーに対して圧力を受けていると感じてしまう。

互恵的でない天使を拒否する戦略

例えば、少なくとも自分自身はそうでないと断言できるものの、しかし自分以外の他のプレイヤーの誰かがそうした利他的なプレイヤーを悪魔的に利用しようとした際に受ける自らの被害への不安。
結局の所、そうしたグループ至上主義のような利他的なプレイヤーは、他の誰かに悪用されやすいとも言えるわけで。純粋無垢な人が逆の面から見れば騙されやすいとも言えるように、一つの長所は逆の意味で短所でもある。


もし共に共通利益を追求するべき味方のプレイヤーがそんな人だったら、多くの人が不安に思うだろう。この人と一緒にやっていって大丈夫か? と。
それでも自分とその利他的なプレイヤーの二種類だけだったら話は単純だったかもしれない。要は自分が悪用するか共にやっていくかという自らの決断だけであるから。しかし今回の例のように4人のプレイヤーが居る状況では話は死ぬほど複雑になる。その利他的なプレイヤー以外の3人は、自分以外の残り2人が一体何を考えているのか疑心暗鬼にならざるを得ないから。
それなら普通にある程度までは自己利益を追求しある程度までは共通利益を追求する、「ふつうの」利己的なプレイヤーと組んだ方がマシである、と考えに至るのはまぁ別におかしい話ではない。


利己的であるということは、逆の意味でいえばつまり、自分の利得を守る為にある程度までは自分の属するグループを守ってくれるという意味でもある。そんな中にまるで鴨のような利他的なプレイヤーが紛れ込めば、そうしたある種の均衡状態は崩壊してしまう。
利他的なプレイヤーが一人で騙されて被害を被るならともかく、もしその被害に自分が巻き込まれてはたまらないから。

*1:同時に本来最強であるはずの「しっぺ返し戦略」も通用しない。