近代化への生みの苦しみとなるか

人は自分の存在、あるいは信じる存在が危うくなると、それはもう必死になるんですよ。というお話。
「魔女狩り」被害に遭う下層民の女性たち、ネパール 写真3枚 国際ニュース:AFPBB News

【2月11日 AFP】ネパールの首都カトマンズ(Kathmandu)から南へ40キロのピュタル(Pyutar)村で、カリ・ビスウォカルマ(Kalli Biswokarma)さん(47)は、「魔女」であることを白状しろと、近所の人々から2日間にわたり拷問を受けた。

(中略)

 ネパールでは、毎年数百人のダリット女性が同様の被害に遭っていると見られる。この国では迷信およびカースト制に基づく差別が根強く、大半のコミュニティーが厳格な父権社会のままだ。

 ヒンズー教に基づいた君主制国家から現代的な世俗国家に移行するなか、政府は今年を「女性暴力撲滅年」と宣言している。しかし困難な道であることは政府も認めている。

「魔女狩り」被害に遭う下層民の女性たち、ネパール 写真3枚 国際ニュース:AFPBB News

社会の移行期に、別にこうしたある種の原理主義や過激派が跋扈するのは、珍しい話ではない。キリスト教での宗教改革前後にあったグダグダもそうだったし、あるいはイスラム教で今日起きているタリバンやらその他の過激派でもそれは変わらない。


それまで信じられていた価値観が衰退する時、当然新たな価値観を全ての人が受け入れられるわけではない。ならばそれを強固に信じていた人はどこにいくのか? と言えば当然彼らは抵抗するだろう。そしてもし、自分の信じる何かが更に衰退していけば、彼らは更に危機感をもってより過激な手段に訴え、それまでの価値観を証明しようとする。
だからある意味、原理主義や過激派が存在する事はそのまま、その価値観が衰退していることと同義であると言える。人は自分の存在が危機に瀕したと思うからこそ、より激しく暴れる。何の危機感も持たないのに、無意味に暴れるのは頭がおかしい人だけだ。
つまり今回の例で言えば、ネパールで信じられていた迷信やカースト制に基ずく差別を「正しい」と信じている人達が、自らの価値観が衰退したと感じているからこそ、より強硬な手段に出て、それを過激な形で再確認をしているのだと思う。近代国家へと至るための生みの苦しみ。


まぁだからある意味、彼らに「女性の人権を守ろう」と教えた事こそが今回のような悲劇を生み出した原因だと言う事はできる。とはいってもそれまでも言ってしまえばより「穏当」に、ネパールの女性は迫害されてきたわけだけど。さて彼らの行動は正しい結果となるのか。


しかしそうはいっても、こうした所謂「現代的な世俗国家」を目指すのは国家経営として当然の流れだとは思う。この前のアフリカのあれでもあったけど、少なくとも現代の世界において「発展しなくてもいい」とか「古い国家のままでいい」なんて言うのはまったくあり得ない。別に倫理的にどうとか道徳的にどうとか人権的にどうとかそんな理由ではなく、単純に弱い国家のままでは、これまでもそうだったように永遠に他国にいいようにされるだけなのだから。*1
だからこうした近代化への障害となるような古い価値観の抵抗、例えば女性の迫害だとか魔術的な迷信の信仰だとか、そんな「魔女狩り」などにおいて被害者が傷つけられる時、迫害者もまた同時に傷ついている。彼らは弱者を迫害すると同時に自分達の国家の将来をも迫害している。


その意味で「こいつらバカだな」と言う事はできる。勿論自戒を込めて。

*1:私たち日本は鎖国が終わる時それを学んだ