「近代国家の解体」という古典的目標

最近になって殊更に、某国の某党がそんな事を画策している! なんて騒がれるけど、でもそれって少し間違っているよね、というお話。
「近代国家の解体を狙っている」とはまぁ扇情的な言い方ではあるけれど、歴史的に見て一部のイデオロギーを持つ人々はほぼ常に、(より穏当な言い方をすれば)「国家の自治権を縮小」を要求してきた。
近代になって生まれた国民国家はその誕生から現在に至るまで、そんな近代国民国家自治権に挑戦する勢力とずっと戦ってきたんです。そんな近代国家の力と権威に対して疑念を投げかける戦いは、だから決して最近になって生まれたわけでは無い。まぁ逆に言えば、そうしたホッブス的な闘争状態によってこそ、両者は均衡しバランスされてきたとも言えるんだけど。


「近代国家の解体」の前進と後退の歴史

そもそも(めんどいしここでは纏めて)近代国家=国民国家は歴史的に見て結構新しい概念で、その生まれはヨーロッパ近代初期の新興君主国家(イギリス、フランス、スペインなど)である。ウェストファリア条約以後そうした流れは加速し、現代まで通じるような「国家」という基本的な特徴を身に付け、さらにナポレオン戦争などを通して「国民国家」としての性格を身につけた。国民国家は自身の生存という国際的な生存競争を生き抜く為に、着々とその力と権威を国外と同様に国内にも増大させていった。
しかし逆にそんな国民国家の国内の影響力・統制を排除しようという対抗勢力もその頃から存在している。


例えばそれは、
既存国家から独立しようとする民族勢力や地方勢力であったり、
あるいはアダム・スミスの子供たちによる国家の重商主義保護主義の批判であったり、
あるいはイマヌエル・カントの子供たちによるコスモポリタン的な思想背景であったり、
あるいはカール・マルクスの子供たちによる労働者の運動であったりした。*1


その頃からずっと、国家の自治権に対して影響力を排除しようという対抗勢力は存在してきた。しかし国際情勢が緊迫する度にそれは脇に追いやられた。国家にとっての存続に関わる「脅威」は国内の革命を除けば、敵対的な外国しかありえないんだから。対抗する為に強い国家が必要だとして、その代名詞とされるような徴兵制や、産業や投資や通過取引や労働争議に制限が加えられたりした。
第一次大戦や第二次大戦であったり、冷戦構造であったり、あるいは大小様々な戦争の危機によってそうした「近代国家の解体」という昔ながらの目標は後退し、それが無くなればまた前進した。つまりその繰り返しの歴史なんですよね。まぁあんまり日本では意識されない事ではあるんですけど。



そうした押し引きの流れの一つの到達点としてヨーロッパは、欧州連合という壮大な目標に現在挑んでいる。彼らは皮肉にもアメリカによる平和の元でそんな国際関係の危機と離れる事ができたから。国家の自治権縮小という壮大な目標に挑むことができた。これからどうなるかわかりませんけど。
しかしそんな「幸運な」ヨーロッパは例外であったんです。
皮肉な事に「国家の自治権を縮小」を達成する事はつまり、(それが正しいかはともかく)他国から「弱くなっている」と大抵の場合見なされてしまってきたので、多くの場合で国際情勢の不安定化をも同時に招いてしまった。そしてまた以下略。


うん、なんだろうこの空回り感。さて、果たしてこんな不毛な連鎖から人類が抜け出す時が本当に来るのか、乞うご期待!

*1:この辺りは『21世紀の難問に備えて』(ポール・ケネディ著)を参考に