「抑止」問題における本来の争点 前編

最近の(北朝鮮が犯人とされている)韓国哨戒艦沈没や、少し前で言えば南オセアチア紛争、あるいは過去歴史上無数にあった抑止の問題。
まぁ最近の日本においては、抑止以前である「(アメリカの)抑止力なんて幻想だ!」的な話やら「(憲法九条の)抑止力なんて幻想だ!」的な話やらでなんかもう幻想破壊合戦な昨今なわけですが皆様いかがお過ごしでしょうか。そげぶ合戦。けどそれってそもそも本題じゃなよね、な話。


実際の所、日本の内輪向けな論争はともかくとして、国際社会において一般に抑止の問題が語られる時に、争点になるのはその「以前」よりも「以後」の問題の方ががより重視される。例えば韓国哨戒艦沈没の場合、韓国政府は今後こうした事が起きない為に、どういう態度を取るべきか。
私たちは、一体どこまで強圧的に態度出れば、あるいはどこまで融和的な態度に出れば、次の悲劇が防げるだろうか? 
抑止が功を奏するのは相手に「もし次の段階に進めばより大規模な措置を取ります」と違反者に理解させる事である。だからこそ次の悲劇が防げると。しかしそこにはジレンマも存在する。「もし今の段階で措置を取れば、より大きな危険を招くのではないか?」と。普通、抑止の問題は大抵ここが最大の論点となる。


何が違反で何が違反でないかを決めるのは単純な事なんです。しかし、誰が、その違反者に制裁をどういう基準で、どれくらい加えればいいのか、を決めるのが一番複雑でかつ重要な問題なんです。国際社会のプレイヤー達はそうした問題をずっと考え続けてきている。そしてこれが自分自身が被害者(あるいは加害者)でないのなら、それはより複雑な問題となる。
もし周囲に居る危険な誰かが私たち以外の誰かへ問題行動を起こした時、私たちのとるべき行動として、
それを強く罰する行動に出ればいいのか?
加害者の方に肩入れをすべきだろうか?
ただ黙って見過ごせば良いのか?
中立の立場を取るべきか?
私たちは「次の悲劇」を呼び起こさない為にどういう行動を取ればいいのだろうか。現代に生きる私たちが「抑止」を考える上で本来問題にしなければいけないのはそういう事なんですよね。島国根性鎖国大好きな私たち日本人は特に、大抵自分の事しか考えていませんけど。まぁ確かにそれも一つの生き方ではあります。
こうした問題が語られる時、お互いの話がそれはもうよく噛み合わないのは、多分ここらへんが原因じゃないでしょうか。以下続くかもしれない。