とある誠実な男の幕引き

それはむしろ当たり前で、どこにでも居る、ごくごく平凡で普通な人のお話。


というわけで、結局、彼の理想をきちんと理解してくれる人は現れなかった。そして彼は大多数の人々に「理解されていない事を」ついに理解したが故に、自ら幕を降ろした。
彼は周囲の言うような、自分が嘘をついているとは最後まで信じていなかった。信じていたのは、ただただひたすらに「みんなに話せば解ってくれる」という事だったのだろう。彼はその意味で確かに、自分の中では、最後まで嘘を付いていなかった。ただひたすらに自分の中にある理想やイデオロギーを信じて、その正しさを周囲に向けて証明しようとしただけである。
だから彼は恐らく、今でも、自分が嘘を付いたとは思っていない。まじめに自分の主張を繰り返していただけだと。


私たちはそんな彼を嘘つきと呼んだ。
しかし実際は彼の言う通りで、彼は嘘をついている自覚が無い、という点から見れば確かに彼は嘘つきではない。嘘つきは自分が嘘を付いていると自覚しているからこそ、意識的に相手に嘘を言う。ところが現実に起きていたのは、私たちには全く理解できない理想やイデオロギーを彼がただ語っていただけに過ぎない。彼は私たちに対して、騙そうとも、嘘をつこうとも、ごまかそうとも思っていなかった。真摯に私たちを啓蒙しようとしただけで。
結局そこで起きていたのは、私たちは彼と最後までまともに、「聞く耳を持つ」ような、対話が成立する事はなかったという事である。


彼が信じていたことが本当は正しかったのか、あるいは間違っていたのか、そうした事に最早意味はない。
彼は素朴なまでの純粋さで自らの理想やイデオロギーを信じていた。つまり彼は自らのプロパガンダを完璧に信じていた。だから彼は自ら語るようにほんとうに、自分の「思い」に対して、誠実だった。そしてその誠実さで周囲を啓蒙できるとも思っていた。自分の内にある「思い」に近い方へ、世界を現実を変えることができると。それは悪意や陰謀などではなく、単純に善意から。そしてそんな善意故に達成されると本気で信じていた。
しかし、それは成功しなかった。
そして失敗した彼は、自分の内にある「思い」を変えるよりも、世界や現実を変える事を諦める方を選択した。自ら幕を引こうと。


結局、彼の真の悲劇は、そんな達成できなかった不相応な理想やイデオロギーではない。そうした理想は多かれ少なかれ誰もが胸の内にあるのだから。しかしほぼ全ての人々には、そうした自らの「思い」を現実と世界に実現するような機会はまず訪れない。そんな数少ない例外を成功裏に収めた人々が歴史に名を残すし、しかしそれに失敗した人は消えていく。
彼は本当に運良く(それが幸運か不運かはともかく)そんな例外的な機会を手にしたが、失敗した。


私たちにとっての悲劇は彼に機会を与えてしまった事である。では、彼自身にとって真の悲劇は一体なんだろうか?
彼の「思い」が私たちに伝わらなかった事だろうか?
それとも彼の「思い」は私たちに伝わらないという事が証明されてしまった事だろうか?