民主主義において他者を「寛容」することの意味

アメリカの移民問題や、最近ヨーロッパでも盛り上がってるブルカ賛否等のイスラム文化との摩擦の問題。それを見て私たちはまぁ簡単に、彼らのそんな「不寛容」を批判してしまうわけです。
けどそれって本当にそれだけの問題なのだろうか? というお話。

民主主義の「寛容」を成すもの

私たち日本人も信奉する「リベラルな民主主義」というのは確かに、今考えられる範囲では、限りなく正解に近いものではある。欧米の文明が最も誇るべき業績である、という自画自賛な賞賛もわからなくはない。しかし当然、それが全てを解決するわけではないし、また運用上に必要なものだって多い。よりリベラルな民主主義を成立させる為に必要な、よく整備された法制度とか強力な政治体制とか多少なりとも安定した経済だとか。
そして同じ位重要なものとして、「共通する文化的価値観」が適切に機能している事、がある。


それは別に宗教でも文化でもイデオロギーでもあるいは慣習だっていい。私たちは最低限のそうしたコンセンサスがあるからこそ、寛容の名の下に自由な意見を戦わせることができ、同時にその恩恵を享受することができる。
それはつまり、そんな共通した価値観を担保に置いた上で、民主主義の基本的な価値観である「寛容」を心理的にも制度的にも許容している。
共通の価値観という「土台」の上でなら許されるという手順によって、民主主義の「寛容」は成されている。そうでなければ極端な寛容と個人主義は、いつか民主主義自身の崩壊にさえ行き着いてしまうから*1。だからこそそのストッパーとして、そんな基礎の価値観上に限定することによって「無制限に広がる寛容」を抑止しているわけだ。
皮肉なことに、よりリベラルな民主主義であればあるほど、より確固とした「共通した文化的価値観」がその維持の為に要求される。そうした前提や保険があるからこそ、(少なくとも民主主義においては)人は異質の他者により寛容になれる。

寛容の義務と、不寛容の矛盾

さて最初の話に戻って、結局いわゆる「異邦人たち」への寛容の問題が突きつけられているのは、各々の個人的な心情の問題であるというよりも、そうした民主主義という政治体制へ、なんですよね。
彼らが異質なのはいいとしても、本当に共通の価値観を持ち得るだろうか? という人々の疑念。それはまぁ確かに一言で言ってしまえば「不寛容よくない」で終わってしまう話ではあるんだけれども、それでも彼らの民主主義を維持構成する共通の価値観への挑戦でもある。


そして疑う彼らが心配するように、共通した文化的価値観を用意できずに失敗した民主主義国家はそれこそ無数にあるわけで。独立後の多くのアフリカ諸国や現在のイラクでも。だからそんな維持しなければならない「共通の価値観」に対してより慎重になってしまうのは理解できる話ではある。
もちろん逆にそんな「不寛容」が悲劇を招いた事も無数にあった。かつては「宗教」だったり、最近では「民族」だったり。しかしそれでも、民主主義の基本的な徳である「寛容」にとって、また同時に民主主義自身にとっても、そうした最低限のコンセンサスは維持していかなければならない。その意味で確かに増加していく移民や異文化などは私たちに挑戦を突きつけている。
一方には寛容であることを、そしてもう一方には「共通の価値観」の維持かまたは新たな創出を。


という不完全でしかしそれでも愛すべき私たちの「寛容」のお話。まぁぶっちゃけてしまえば、よくある民主主義の限界、的なオチの一つではありますよね。

参考

『「大崩壊」の時代』フランシス・フクヤマ