私は暴力に対して一つの武器しか持っていなかった。それは

そろそろ鎮静化してきた気がするので、なんか異様に拡散してたユーゴ紛争についてのあれのお話。


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なんというかドロドロですよね。戦争で奪うほどの価値が、平和にはあるから、そう皆信じているから。


まぁ結局の所、この一連のユーゴスラビア紛争はNATOが武力介入するまで終わらなかった。さすがですNATO。主に、というか殆ど、中心として働いたのはアメリカだったんですけど。少し前に話題になったイラク戦争とかと一緒です。逆に言えばもっと早く介入していれば、筆者が本文内でも「遅すぎ」たと言っているように、彼らは悲劇にあわなかったかもしれない。
しかしそうはならなかった。私たちの記憶にも「まだ」残っているついこの前のイラク戦争の時と同じように、安全保障理事会での決議を得る事ができずに結局「単独主義だ」や「軍事侵攻だ」と(中国やロシアから)言われながらも、アメリカを始めとするNATOは決議無しでついに、いやむしろフォチャの虐殺など悲劇の後になってようやく、介入した。


さて置き、こうした悲劇を踏まえた上で、国連の決議無しで行ったユーゴ介入は正しかっただろうか? そして同じく決議無しで行われたイラク戦争は正しかっただろうか?
日本ではあんまり言われませんけど、この点は欧米の左派の中でも結構論争になってて面白いですよね。なんていうかポジショントーク祭りな所が。
ネオコンで有名なロバート・ケーガン*1風に言わせれば「ヨーロッパが無能だからアメリカがやってやった」あたりなんでしょう。まぁ上記のどちらも彼らの価値観で言えば大して差はないかもしれない。ユーゴの教訓、というのは多少なりともアメリカ側にもあったんでしょうし。


「暴力は何も解決しない」とよく言われる言葉は確かに正しい。
彼らの民族間に今尚存在し続ける怨嗟の鎖は結局、彼らが始めた暴力でも、それを治めた国連やNATOの暴力でも、未だ解決には至っていないのだから。
しかしそれでも、暴力は何も解決しなくても、一つの障害を取り除く事はできる。誰かが始めた暴力という障害を、それに対抗する暴力によって取り除く事が。そりゃサルトル*2さんも皮肉交じりにタイトルみたいな事も言いたくなりますよね。

私は暴力に対して一つの武器しか持っていなかった。それは暴力だ。

つまりそういう事であると。