ならば「正直者が馬鹿を見ない社会」ってなに?

というわけでなんか社会に怒ってる人達に良く見られる言葉な、「正直者が馬鹿を見るなんてひどい」とか「正直者が馬鹿を見ない社会にしよう」とか。まぁ別に誰が何に怒ろうが結構どうでもいい話なんですけど。
ところで実際の所「正直者が馬鹿を見ない社会ってどういう社会なの?」という思い付きから始まったあくまで適当な思考実験でありネタです、なお話。


ここでは「正直者」が何を定義しているのかで話が変わってきそうなので、このタイトルのような文句がされる時は大抵ルールを逸脱した、あるいは不当な方法によって利益を得ることへの対抗として語られるので、とりあえず「真面目・誠実にルールを守っている人」あたりで。

善意と悪意から発せられる同じ言葉

基本的には彼らのいうことは正しい。長期的に見れば、誠実でないことよりも、あるいは誠実である振りをするよりも、真に誠実であることの方が結果的に大きな利益を得られる*1と。確かにそれは私たちが近代に入って獲得した道徳の一つではある。しかしそれでも既存のルールに従って正直に振る舞うよりも、ずる賢い・狡猾な方法で(あるいはそれまでになかった新機軸な方法で)より多くの利得を生み出す、という事例は確かに私たちの身の回りにもある。その意味で正直者が馬鹿を見る、という状況は確かに理解できる。
ここでそうした異端者たちを随時排除していけば、いつか「正直者が馬鹿を見ない社会」を実現できるかというと、しかしそれは難しいと考えざるをえない。
もしそうやって社会における「正直者」が増えれば増えるほど、またずる賢い人にとっては同類である同じルール無視のプレイヤーが減れば減るほど、そこでは「正直でない人」の得られる利得は増大していくから。


何故一定のルールの下にある競争において、フライングやドーピングのような行為が利益を得られるのかといえば、それは当然他の人びとがそんな事をしないだろうという確信に近い予測があるからである。もし仮に10人での競争の際に、違反者が3人の場合と、違反者が唯1人の場合を考えればそれは明白である。結果得られる利益の期待値は確実に後者の方が大きい。また逆に10人の内誰もがそうしたルール違反を犯せば違反する事による利得など消え去ってしまう。
その意味で「正直者が馬鹿を見ない社会」に近づけば近づくほど、その中でも更に狡猾な(あるいは賢い)プレイヤーの得られる不当な利得は増大していく。勿論それに伴う露見するリスクも同時増大していくものの、しかしそれと同じ位得られるリターンも増大していく。やがてより一部に集中された利得は固定化されたヒエラルキーの形成に繋がっていく。
だからまぁ一般的にディストピアと形容されるような世界においては、一般の人びとへの無知化愚民化、などがしばしば行われる。つまり不当な利得を得られるライバルは減れば減るほど望ましいし、そして決められたルールに従うだけの正直に振る舞う人びとが増えれば増えるほど、ぶっちゃければカモは増えていく。


つまり、完全に「正直者が馬鹿を見ない社会」を実現できずにそれが中途半端にしかなされないのであれば、それはまぁ私たちが未来を想像する中でも最も暗い予測に行き当たる。本当に善意から「正直者が馬鹿を見ない社会」を夢見る人と、まったく逆のディストピアな支配体系を確立したい人は、結果的に同じような事を皮肉にも口走る事になる。
「正直者が馬鹿を見ない公平な社会にしよう」と。

こんにちはファシズム

ところで、ならばそうしたルールの逸脱者が全く皆無な社会ができるのかというと、うん、まぁ、それっていつか見た全体主義ですよね。
ずる賢いや狡猾と、あるいは合理的や効率化とが意味する所はかなり紙一重な所があって、かつて共産主義者たちはそれを前者と叫び、資本主義者たちは後者と叫んだわけだ。まぁ今でも結構似たようなことを言っていますけど。

こんにちは世紀末

さて置き、「正直者が馬鹿を見ない社会」の可能性としてもう一つ選択肢がある。
それは某世紀末的な汚物は消毒だー!やいわゆる弱肉強食の世界ような、人びとの社会関係資本・信頼や協力関係が公に否定された社会である。一般的に人びとが正直に誠実に振る舞わない事が主流である世界。


そうした社会においては、日常的に騙し合いや裏切りが発生することになる。だから人びとは常に個人的な利得でしか計算をしない。
しかしゲーム理論での囚人のジレンマが証明するように、実際には個々の最適解よりも全体の最適解を追求する方が結果的には、より大きな利得を手にできる状況は頻繁に起こる。
つまり逆説的に誠実な正直者が少なければ少ないほど、あるいはずる賢い人びとが多ければ多いほど、「正直者が馬鹿を見ない社会」は成立する。そこでは彼ら正直者は彼ら同士での輪の内部の利得を増大していく。いつか強大になっていった彼らはそうした協力・信頼関係の持たない人びとから多数派を奪回することができる。


「正直者が馬鹿を見ない社会」に至る為のもう一つの選択肢は、つまり正直者が少数派に転落した社会である。嘘つきな人びとが単純に増えていけばいつかどこかの時点で、正直である事と嘘つきである事の、リターンの期待値が逆転する。そうすれば次に起きるのは、裏切りではなく正直者同士でこそ利得が最大になる社会である。

俺たちは天使じゃないし悪魔でもないし

まぁだからといっていつか誠実な正直者たちが、完全にそうした悪どく狡猾な人びとを完全に駆逐し「正直者が馬鹿を見ない社会」に到達できるかというと、そうではない。誠実な正直者たちが増加していけば、どこかの時点で正直であることよりも裏切る事によるリターンが上回ってしまうから。そしてまた最初に戻ると。


そんな正直者と嘘つきの永遠の綱引きでは、結局「正直者が馬鹿を見ない社会」というのは手の届かない理想郷でしかないと思うんですよね。
もしそこで何かできるとすればアクセルロッドが『しっぺ返し戦略』で証明したように、現時点での最も効果的な手段は相手が騙してきたらその都度報復を繰り返していくしかない。


私たち人間は完全な正直者でも完全な嘘つきでもなくて、合理的な正直者であり、合理的な嘘つきなのだから。

*1:誠実であることを証明する最良の手段は実際に誠実であることだ、的なお話。ロバート・H・フランク著『オデッセウスの鎖―適応プログラムとしての感情』より