「死亡証明」なのか「生みの苦しみ」なのか

アメリカの終わり」とか「○○の終わり」とか、そう言い始めてからが長いんですよねー、なお話。


独メルケル首相「多文化主義社会は失敗した」の衝撃 (1/2)

 BBCの記事によれば、メルケル首相はいわゆる「多文化主義」の概念―互いに隣同士に幸せに生きるーは機能してないし、移民たちはドイツ社会に融合するために、もっと努力をするべき(例えばドイツ語を学ぶなど)、と言ったそうである。

独メルケル首相「多文化主義社会は失敗した」の衝撃 (1/2)

フランスのロマのあれと合わせて色々大変そうなお話ですよね。どこへいくヨーロッパ。
かつてまさに「キリスト教国」だったヨーロッパは、政教分離の理念のもと、そうしたものに国家のアイデンティティを見出す事をやめた。で、その次の段階として多民族であり多文化であることに価値を見出そうとした。
確かにそれは一部の人が自画自賛するように「人類の進歩」であったかもしれない。
宗教から卒業して、民族あるいはナショナリズムからも卒業して、そんな「この支配からの卒業」をして、一体彼らはどこに行こうとしているのか。といえば政治的な、市民的なものにアイデンティティによって国家を規定する道を見出そうと頑張っている。それはドイツの例で言えばイスラム教を公認宗教の一つとしたし、非ドイツ系民族にも国籍を認めたように。
ところが彼らの意欲的な挑戦は今様々な苦境に陥っていると。


結局の所、そうしたヨーロッパの反移民の動きの反応ってアメリカで今盛り上がってるティーパーティ運動のそれと近い物があると思うんですよね。将来的にも現在の潮流は維持されていくのかどうか、それに肯定的にも否定的にも、どちらの側からも疑問に思われている。
今起こってる小さな政府を目指す運動は、古き良きアメリカから新しいアメリカへの変化にとって「死亡証明」なのか、「生みの苦しみ」なのか?
今のヨーロッパのドタバタは、多文化主義の「死亡証明」なのか、「生みの苦しみ」なのか?


元々懐疑的な人からすればそれは「死亡証明」に見えるし、しかし推進派な人からは「生みの苦しみ」に見える。
まぁどちらにしても、大抵の場合、つまるところ(未来など見通すことのできない私たちのうちのほとんど全ての)人は自分が見たいものが見えているわけですけど。