それってかつて宗教が目指したもの?

人類の全てを射程に入れた普遍的な道徳律を目指した先にあったもの、のお話。


生態系保全を協議するCOP10開幕、「美しい地球を次世代に」 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_30&k=2010101900955

 名古屋市での国連生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)は19日、開発途上国の生態系保全に向けた財政支援策などを話し合った。途上国からは「先進国が追加資金を提供する必要がある」(ブラジル)といった意見が続出。先進国は反発していることから、この問題を非公式に協議し調整を図ることになった。
 COP10では、生態系保全計画となる「ポスト2010年目標」の設定が主要議題の一つ。10年までを期限とした現行計画は、生物の絶滅ペースを抑える目標を掲げていたが、途上国の資金不足も一因となり、未達成に終わる見込みだ。

http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_30&k=2010101900955

ということでいつもの構図が繰り返される。先行組と後発組の確執。
今回のような環境保護でも、あるいは核問題でも、あるいは経済的な問題でも、いつだって私たちは先進国がかつてやった愚行と後進国がこれからやる愚行を止めることに対する補償問題を、殆どの場合において解決できない。
私たちは彼らに一体どのように補償すればいいのか? それとも彼らの愚行権を認めるべきなのか?

ポスト宗教の果てにあるもの

さて置き、こうやって全世界規模での倫理観・道徳律を目指す様子って、昔失敗した各世界宗教を思い出しますよね。
かつて「世界が神と共に平和でありますように」と唱えた人びとと、現在の世界へ向けて「民主主義を」や「自然保護を」や「人権の尊重を」と唱える人びと。


『「大崩壊」の時代』の中でフランシス・フクヤマが言うように「かつて宗教の道徳律が目指したのは、最終的に世界全体にまで想定していた、唯一の組織だった」というのはまさにその通りなんでしょう。だから「宗教が人間社会の障壁を崩した」とも言われる。まぁその結果が強圧な宣教師だったりあるいは宗教戦争だったりもしたわけですけど。
世界全体に彼らが本当に信じていた「善き」神の名と理念を行き渡らせようとした果てにあった悲劇。


私たちはそうしたことを過去の教訓として、もう人類共通の道徳律を目指すのに宗教に依るのはやめて、もっと理性的な「政治」によってそうした国家以上の何か、より高次のヒエラルキーを作り出そうとしている。世界共和国だったり、世界連邦だったり、国際連合だったり。人類全てが共通して持つべき価値観を。
かつて合言葉だった「神の名」から、人類共通で地球全体の利益となる何かを。


しかしその結果は、「我々にあなたがたの価値観を押し付けるな」と拒否されている。
本当に人類全体の利益を目指していたとしても、しかし結果的にやっていることは、かつてやっていた宗教のそれと何か違うのかと言われてしまう。かつて神の名と世界平和を唱えた頃と、環境保護や核の無い世界と世界平和を唱える今と。
それは、一部の人たちがアメリカの無邪気な行動を「文化の押し付け」とか「傲慢だ」と笑っていたけども、しかしいざ我が身となると「何故解ってくれないのか」と彼らと同じように嘆く構図。


かつての宗教が目指した、人類社会全体にまで及ぶような、道徳律は失敗した。
ならば次こそはと、「環境保護」や「核なき世界」や「自由貿易」や「民主主義」などの人類共通の何か、ルールだったり規範だったり条約だったり道徳律だったり価値観だったり、を目指したけれどもやっぱりかつてと同じように拒否されてしまう。
「何でそんなものを押し付けられなければいけないのか?」と。