何故「いじめをしていた彼らは馬鹿だ」と言うだけでは何も解決しないのか

いじめ問題のお話。よく話に挙がる小学校や中学校だと少し異質すぎて理解しにくいけども、しかし大学生ならばそれより幾らかは精神的にも大人に近いのでより彼らの「内部的な独自論理」の結果としての社会状況を理解しやすいかもしれない。


http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/101227/crm1012270130003-n1.htm

 追手門学院大学大阪府茨木市)に通っていた在日インド人の男子学生=当時(20)=が大学でいじめを受け続けたとする遺書を残して自殺した問題で、男子学生が複数の学生から人前でズボンを脱がされたり、イスラム過激派テロリスト「ビンラディン」とのあだ名で呼ばれるなどの嫌がらせを受けていたことが26日、分かった。男子学生の親友が証言した。大学側はこれまでいじめの事実を強く否定してきたが、男子学生が、こうした嫌がらせをいじめと受け止め、自殺を図った疑いが強まった。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/101227/crm1012270130003-n1.htm

確かに(自殺までに追い込んだいじめをやっていた)彼らの行為は間違っていると断言することはできる。それは科学的にも倫理的にも、あるいは形而上でも形而下においても、彼らは間違っていると。
彼らの行為はまさに「ヘイトクライム」であると弾劾することはできる。彼らはまさにそのどうしようもない無知と悪性を発揮しているに過ぎない、と。


でもそれだけじゃ寂しいので、以下適当なことを考えてみたいつもの日記。

彼らは彼らの世界で生きている

社会学に『状況の定義』という言葉があるんです。つまり「社会状況とは状況の参与者によって定義されたところのものである」というお話。今回の話で言えば、結局の所、何故こうした結末に至ったのかというと、当事者である彼らがその行為にどういう価値を見出していたのかによって決まっていたことになる。
故に彼らに対して単純に私たちがその外部から一般的・常識的な見地から「お前らはバカだ」と指摘したところで、解決に寄与する事はほとんど何もない。彼らのその大学内での(私たちがバカだと言うところの)状況は、そんな彼らの定義によって決定されているのだから。私たちはその社会状況に関与しない外人でしかない以上、その内部の彼らの定義を批評するだけでは何も変わらない。
よく閉鎖環境である学校内でのイジメの問題が解決しないのってそういう理由もあるんですよね。学校外である外部から幾ら一般的な意見を述べた所で、究極的にはその社会の状況を決めるのはその内部に居る参与者の定義、でしかないから。いくら「イジメかっこわるい」とそれ以外の全世界が認めたとしても、一部のそう思っていない集団内では、その言葉に効果はない。


ぶっちゃけてしまえば、そうした彼らの無知をいくら指摘した所で、実際に起きている事実を変えられることはほとんどない。社会学者風に言えば、現実とは定義の問題でしかない故に。外部からすると「よく解らない」判断基準でこうして自殺までに至ってしまうことに私たちは首を傾げてしまいがちではあるものの、しかしその良く解らない判断基準こそが、その社会では真に重要なのだから。


一体彼らは何故、そうした定義に至ってしまったんでしょうね? (いつか続くかもしれない)