絶対的自由と制限的自由

『自由』についての定義ゲームのお話。


東浩紀 on Twitter: "しかしなあ。そもそも、表現の自由って絶対不可侵でもなんでもないのよ。たとえば他人を傷つける表現の自由はない。これは重要なことなんだけどなあ。マンガは絶対的な聖域だって確信はどこから出てくるのだろうか。"

しかしなあ。そもそも、表現の自由って絶対不可侵でもなんでもないのよ。たとえば他人を傷つける表現の自由はない。これは重要なことなんだけどなあ。マンガは絶対的な聖域だって確信はどこから出てくるのだろうか。

東浩紀 on Twitter: "しかしなあ。そもそも、表現の自由って絶対不可侵でもなんでもないのよ。たとえば他人を傷つける表現の自由はない。これは重要なことなんだけどなあ。マンガは絶対的な聖域だって確信はどこから出てくるのだろうか。"

えーと・・・・・・色々惜しい! 基本的には正解だし、でも別の定義では間違っているとも言える。まぁtiwitterという文字制限下での限界という見方もできなくはないけど。だからこの方の仰る事はそこまで間違ってはいないんですよね。単に言葉が足りていないだけで。
つまるところ「表現の自由は絶対不可侵であるべきとされているし、しかし他人を傷つける表現の自由はない」であると。


これが矛盾した議論にならないのは、本来の『表現の自由』の不可侵性が意味しているのが「国家権力からの干渉を認めない」という意味だからなんです。その意味では確かに「その自由は絶対に不可侵であるべき」と民主的な現代社会では定義されている。要するにこうした自由などの人権擁護の中核的概念とは、歴史的な国家と個人との闘争から生み出された理念でありまして。まぁそれはもう血と涙抜きでは語れない、悲惨な歴史から私たちが学んだ歴史的教訓とされている。
故に、恣意的な政治権力行使を認めないという意味において、表現の自由は絶対不可侵である。


さて置き、他人を傷つける表現の自由をも認めようとするのは、上記のような本来あったはずの自由・人権擁護の概念とは全く違うお話ですよね。むしろそこには上記意味の自由に対してマイナスの効果さえある。だってそれは「他人の人権を守るため」という大義名分の為に別の誰かの自由を制約しようとする行為なんだから。
故に、(政治)権力者以外での対等な個人間においては、表現の自由は絶対不可侵ではない。


結局の所、何でこうした発言が議論の的になってしまうかって政治哲学における『自由』の定義が広すぎるからなんですよね。むしろその自由の定義はほぼ相矛盾してしまう位だから。国家と個人の関係における本来的な「国家権力からの自由」と、そして個人と個人との関係における本来的な「他人に迷惑をかけない程度の自由」*1があるから。
故に、上記twitterの発言も私たちの中にある意地悪な恣意性さえあれば、その自由について正しいとも間違っているとも、どうとでもとれてしまう。まぁもし彼に瑕疵があるとすれば、やっぱりどちらの自由について語っているのか発言に盛り込むべきだったとは思いますけど。
ともあれ私たちの愛するインターネット社会では、そんなどうとでもとれる発言について、よりネガティブな意見が強調されてもしまうと。いやぁ悲しいお話ですよね。

*1:以前の日記でも少し触れた、ミルの「他者危害の原理」にあるようなリバタリアンの見方。